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「再び、ピッチに−−」 骨肉腫闘病を支える2つの「心の杖」

2017/03/05(日) 09:00 配信

オリジナル

大宮アルディージャ アンバサダー 塚本泰史

Jリーグ大宮アルディージャの塚本泰史の右足に骨のがんが見つかったのは2010年。右サイドバックでレギュラーの座を射止め、プロとして「これから」という入団3年目の出来事だった。右膝の手術を乗り越えて、再びピッチに立つことを目指す塚本の2つの「心の杖」とは。
(ノンフィクションライター・古川雅子/Yahoo!ニュース編集部)

(撮影:キッチンミノル)

「はい、手術します」なんて言えなかった

取材の日、塚本泰史(31)は週末に開かれるシーズン前の練習試合の宣伝のため、駅前でチラシ配りを終え戻ってきたところだった。ナイロンのチームウエアの胸には、ボールとリス柄のエンブレム。2012年から「アンバサダー」に就任し、親善大使としてチームを盛り上げるのが新たなミッションになった。チームウエアが普段の正装なのだ。

この日、見学に来ていた地元の中学生たちからの取材も受けていた。
中学生「今、どういうお仕事をしていますか?」
塚本「より多くの人にアルディージャのことを知ってもらうこと、いろいろだよ」
術後も契約を更新し続けてくれたチームには「感謝しかないです。多くの人に支えられて今の僕がある」。一方で、複雑な思いも見え隠れする。

「アンバサダーになったという実感がまだなくて。目に見える『これだ』という役割を、今探しているというか……」

右の大腿骨にがんが見つかったのは、2010年のリーグ開幕前だった。右膝に痛みがあり、健康診断の際、チームドクターに訴えたのがきっかけだった。手術を受けて膝に人工関節を入れ、ピッチに立てなくなった。塚本は、サッカーのプロ選手になるという夢の体現者であり、がんサバイバーにもなった−−そんな経験を、リハビリを始めた2011年から地域の子どもや大人たちの前で語ってきた。

2010年3月7日の開幕戦。入院前の塚本が観客に手を振ると、スタンドは自陣も敵陣も関係なくチームカラーのオレンジ色で染まっていた(アフロ)

塚本が罹患した骨肉腫とは、骨にできる腫瘍であり、悪性の場合、外科手術と抗がん剤治療を行う。医療の進歩で生存率は上がった。ただし、四肢にできたがんは悪い部分を骨ごと切り取って人工関節に換えるか、もしくは四肢を切断するか。塚本の場合、人工関節に換えれば、足は切断せずに温存できるものの、プロとしてサッカーを続けられる可能性は「ゼロに近い」と告げられた。その瞬間、「頭が真っ白になった」。その後、塚本は手術以外の選択はないかと何軒か医療機関を当たってみたが、訪ねた医者すべての答えは「ノー」だった。

「大好きで続けてきたサッカーができませんって言われて、初めは『はいそうですか。手術します』なんて、とうてい言えなかった」

大宮アルディージャのクラブハウスにて。見学にきた小中学生と交流する(撮影:キッチンミノル)

少女の言葉を胸に「人工関節でもピッチに立つ最初の人に」

人工関節を入れても、運動はできる。ただ、医師は、人工関節に置換した部分を酷使する激しい競技をプロとして続けるのは難しいと言う。無理にプレーすれば人工関節と骨とのつなぎ目が破損するなどのリスクがあるからだ。サッカーは特に、膝への負荷が大きい。先例を参考にしたくても、そもそも骨肉腫に罹患したプロサッカー選手の例を聞かない。

それでも、手術を受ける前に塚本は気持ちを切り替えた。

「前例がないなら、自分が人工関節になってもピッチに立つ最初の人になろう」

実現への道のりは長い。それでも前を向く塚本には、2つの「心の杖」があるという。

一つは「同病の仲間のためにも、頑張り抜く姿をみせ続けたい」という思いだ。何より塚本自身が、入院中に出会ったある少女との交流により、常にポジティブな思考を保てる「新しい自分」に生まれかわることができた。

手術直後の塚本。「術後に目覚めて右足が全く動かなかった時は、正直こたえました」(塚本さん提供)

リハビリ中にたくさん語り合ったかなちゃん(写真左)と(塚本さん提供)

彼女の名は阿部香奈。初対面の時は中学3年生だった。骨肉腫が再発して足を切断していた。それでも、「退院したら車椅子でもう一度バスケをする」と夢を語り、いつでも笑っていた。

塚本は彼女の話になると涙が止まらなくなる。むせび泣きしながら語った。

「自分は人工関節にしたけれど、足がある。それでくよくよしている自分がすごく恥ずかしくなっちゃって。かなちゃんは死を意識していたかもしれない。それなのに、心の底から笑っていたんです」

彼女は出会った翌年、16歳で息を引き取った。塚本の心に残るのは、「かなちゃん」がいつも言っていたこの言葉だ。

「がんばることは、生きること」

ファンの存在があったから今があると塚本。「辛い手術や治療に臨むにあたり、みんなが僕の背中を押してくれた」(撮影:キッチンミノル)

遠くの目標の前に小さな目標を置く

「もう一度ピッチに立つ」。この「大きな目標」までの長い道のりを、ただひたすら頑張るのではめげそうだ。そこで塚本は、いくつもの「小さな目標」を布石として目の前に置くことにした。これこそがもう一つの「心の杖」だと言う。

東京マラソンの完走(2012年)、ゼロ合目からの富士山登頂(13年)、埼玉から仙台への自転車走破(14年)、そしてトライアスロン大会への出場(15年)。16年はさいたま市から佐賀県小城市まで1200キロもの道のりを自転車で走破。8日間で完走した。

「自分がああしたい、こうしたいと想像しているときが楽しくて。一つずつ実現して、気づいたらサッカーをする夢に近づいていた、というのが理想」

2015年、トライアスロンに挑戦。「いつも併走してくれる兄やチームスタッフに感謝しています」(塚本さん提供)

2016年、自転車で1200キロ走破に成功。ゴールの佐賀県小城市は、14歳の時に骨肉腫で亡くなった中学生の出身地だった(塚本さん提供)

ジレンマはある。人工関節は消耗品であり、使えば使うほど交換する時期が早くなってしまう。それでも、「大きな目標」に向け、今も週1回、勤務後の夜9時から、兄のいる社会人チームに混じり汗を流している。治療した右足では思い切りボールを蹴れない。左足でキックするのも軸になる右膝に負担はかかるが、練習は身体と相談しながら徐々に進めている。

「今の塚本の左足から繰り出すキックは鮮やかなもの」と昔から塚本をよく知る大宮アルディージャ広報の髙橋祐哉は証言する。いつかピッチに立つ自分の姿は、塚本の頭の中にしっかり描かれている。

インタビューの最後に、塚本は込み上げそうになるのを堪えてこう話した。

「当たり前のように朝を迎えるけれど、朝を迎えられることって、本当に幸せなことなんだなって。僕は今、仮にもし明日死んだとしても後悔しないように、一日一日を大切に過ごしたいと思っています」

毎年のチャレンジは年々大々的に。「『今年は何するの?』と期待されるようになって(笑)。キツさが増す分、達成感も大きい」(撮影:キッチンミノル)

塚本泰史(つかもと・たいし)
プロサッカー選手。1985年、埼玉県生まれ。2008年、J1大宮に入団。リーグ通算27試合に出場し、2得点を挙げた。2012年からチームのアンバサダーとして活躍。


古川雅子(ふるかわ・まさこ)
ノンフィクションライター。栃木県出身。上智大学文学部卒業。「いのち」に向き合う人々をテーマとし、病や障害を抱える当事者、医療・介護の従事者、科学と社会の接点で活躍するイノベーターたちの姿を追う。著書に、『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著。朝日新書)がある。

[写真]
撮影:キッチンミノル
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝

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