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塩田亮吾

都心を低空飛行する羽田新ルート 「国益」と住民の不安

2017/02/07(火) 13:05 配信

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2020年、訪日外国人旅行者を4000万人に――。政府が掲げた目標を達成するため、国際線の大幅な増便を急ぐ羽田空港。一方、増便にともない、旅客機が都内の住宅密集地の上を低空で横切ることになる。これまで「海側から着陸し、海へ向かって離陸する」という考え方によって騒音から守られてきた東京の空が、大きく変わろうとしている。(ライター・庄司里紗/Yahoo!ニュース編集部)

東京タワーよりも低く飛ぶ

木立の陰から小さく機影が見え始めると、まもなく「ゴオオオオオオオ」という轟音が辺り一帯を包み込む。

羽田空港の北およそ1キロメートル、東京湾に浮かぶ城南島海浜公園では、日によって頭上を数分おきに巨大な機体が飛び交う。飛行高度は約100~150メートル、騒音レベルは最大値で80~90デシベル。音のうるささは「パチンコ店内と同程度」といわれている。

実は今、都心の市街地の真上で、飛行機が高度300メートルほどの低空で飛ぶという話が進んでいる。

羽田空港を離陸した飛行機が上空を通る。木立をかすめるのではと錯覚を起こすほど間近だ。城南島海浜公園(大田区)にて(撮影: 塩田亮吾)

「新しい飛行ルートでは、品川区の住宅密集地の上を、東京タワー(高さ333メートル)より低い位置を飛行機が飛ぶ。これが今、私たちの頭上で起きようとしている現実です」

そう話すのは「羽田増便による低空飛行ルートに反対する品川区民の会」代表の秋田操氏(78)だ。

2014年7月、国土交通省は首都圏空港の機能強化についての議論を「首都圏空港機能強化技術検討小委員会の中間取りまとめ」として発表した。この「取りまとめ」で、飛行経路の見直しが検討され、新たな飛行ルートには東京都心を旅客機が低空で飛ぶ案が含まれていることが明らかになった。2020年の東京オリンピック・パラリンピック、そして今後の日本経済の発展を見据え、羽田空港(東京国際空港)の国際線を増やすのが狙いだった。

飛行経路は好天時のものを表記。枠内の数字は、その付近で想定されている飛行高度(上段)と音量の瞬間最大値(下段)。南風時は並行する2つの着陸コースが設定されている。羽田の管制から誘導することで、2機が同時に着陸可能で、安全かつ効率がいい運用ができるという。資料:国土交通省

滑走路の運用方法は風向きによって変わるため、国交省が示す飛行ルートは北風時と南風時に分かれている。

都民にとってとくに影響が大きいのは南風時の着陸コースだ(図中の赤矢印)。現行案では、旅客機は埼玉県上空を通り、渋谷区・新宿区上空で高度およそ1000メートルまで降下。その後、恵比寿や品川を低空で飛行しながら、羽田空港のAまたはC滑走路に着陸する。

一方、離陸時(図中の青矢印)に問題となるのは、南風時にB滑走路から川崎方面に向かって飛び立つルートと、北風時にC滑走路から荒川上空を通過するルートだ。

国交省はこの新ルートの運用について、国際線の離発着が増える午後3時~7時の間に限る(北風時は午前7時~11時30分も含む)と言うが、「反対する品川区民の会」の秋田氏は納得していない。

「私の住む東品川や大井町付近の騒音予測は76~80デシベル。走行中の地下鉄車内に相当します。年間約4割を占める南風時の午後、この騒音が4時間も続くわけです。さらには落下物のリスクもある。そんなことは到底、許容できません」

2016年10月、「反対する品川区民の会」が主催したアピールパレードの出発前に挨拶する秋田操氏(撮影: 塩田亮吾)

新ルート案の影響を受ける港区、目黒区、新宿区、板橋区、豊島区、大田区、江戸川区、江東区などでも、市民による反対運動が広がっている。

今回の計画にいち早く異議を唱えて来た大田区議会議員・奈須りえ氏も、次のように疑問を呈する。

「これまで羽田空港では『海側から着陸、海へ向かって離陸』という原則が守られてきました。周辺住民の騒音被害を軽減するため、1970年代に区と旧運輸省(現・国交省)が取り決めた合意事項だからです。ところが今、国は国益を建前に、市民の生活を守る大原則を反古にしようとしているのです」

品川区内で行われたアピールパレード(撮影: 塩田亮吾)

「反対する会」の人たちにとって、現在の都内の空の平穏は、空港周辺の自治体と住民たちが国に掛け合い、勝ち取ってきた賜物だという認識だ。

高度経済成長に沸いた1960年代から70年代、発着数が急増した羽田空港の周辺では、騒音問題が深刻化していた。当時、最も大きな影響を受けたのは羽田空港が立地する大田区、そして飛行ルートの直下となる品川区や江戸川区だった。

「大田区民は、戦前の墜落事故、戦後GHQの接収による強制立ち退き、騒音、環境汚染と、長年の我慢を強いられてきました。そのため1973年、大田区議会は『東京国際空港撤去を要求する決議』を採択。これが羽田の沖合移転につながったのです」(奈須氏)

ほぼ同時期、江戸川区でも旅客機の騒音に対する抗議活動が巻き起こっていた。当時、江戸川区瑞江地区連合町会の副会長(現・会長)を務めていた小野瀬二郎氏(83)は振り返る。

「B滑走路が延長され、供用を開始した1971年3月18日。突然、ジャンボ機の轟音が江戸川の空を襲いました。住民に一言の相談もないまま、頭上が飛行ルートにされていたのです」

区長を筆頭に住民たちが決起した江戸川区の抗議活動は、国を相手取る訴訟へと発展。交渉の末、旧運輸省が住民に配慮する形で1973年に和解が成立した。その和解は「できるだけ江戸川区上空を通過しないよう、国が最善を尽くすことが前提だった」と小野瀬氏は言う。

京浜島つばさ公園(大田区)にて(撮影: 塩田亮吾)

一方、国は国で騒音や環境に配慮した次善策の模索も続けた。1978年末、羽田沖の埋め立て地をもとにした沖合展開計画(沖合移転)が試案として提示されると、その後は「海から着陸し、海へ離陸する」という考え方が確立されていった。

にもかかわらず、なぜ国は今、都心飛行ルートの具体化に動いたのか。その背景には、これまでの方針を変えざるを得ない、日本の将来に対する強い危機感が見え隠れする。

国家の成長戦略を左右する「羽田増便」

「日本の経済を持続的に維持するためには、首都圏の空をもっと世界に開く必要がある。成長著しいアジア諸国の主要空港がハブ(拠点)機能を強め、相対的に成田や羽田の存在感が薄れつつある今、日本も早急に空港の改革に取り組まなければ、手遅れになってしまいます」

国土交通省航空局の星明彦・東京国際空港環境企画調整室長は、そう語る。人口が減少し、経済規模が縮小していく国内状況では、諸外国とのつながりを深め、世界の成長の糧を日本の成長に取り込む環境づくりが必要という考えだ。

京浜島つばさ公園は羽田空港の対岸に位置する(撮影: 塩田亮吾)

事実、下図のとおり、東京の国際線旅客数や就航先数は、シンガポールや香港、ソウルを大きく下回っている。

東京は羽田と成田の合計、ソウルは仁川と金浦の合計。国際線旅客数は2013年、就航都市数は2014年8月時点で旅客便の直行便が就航している都市数。国際線の就航先数が多いほど、ハブ(拠点)空港としての機能が高まり、利用客数の増加につながる可能性が高まる。資料:国土交通省

アジア諸国の主要空港では、空港の発着数の拡大に向けた計画が急ピッチで進められている。例えば、香港国際空港では2016年8月、約1415億香港ドル(約2兆円)を投じた3本目の滑走路の建設がスタート。シンガポールのチャンギ国際空港では、年間の旅客対応能力を1億人以上に倍増させるべく、世界最大規模の新ターミナル建設計画が進行中だ。

日本はこうした世界の流れに乗り遅れている。その原因の一つが、首都圏の国際線を担う成田空港が抱える事情だ。成田空港は都心へのアクセスが良いとは言えず、増え続ける国際線需要、とくに今後拡大が見込めるビジネス需要について、成田だけで対応するのは厳しい実情があるのだ。

そこで再び、国際空港としての羽田の可能性が注目された。2010年のD滑走路の供用以降、羽田の国際線は増発を重ねてきた。しかし、需要が集中する日中(午前6時〜午後11時)の発着枠はすでに埋まっており、「常にフル稼働の状態」と星室長は言う。

「現在、羽田の発着数は毎時80回。現行の海上ルートだけでは、これを最大でも82回までしか増やせない。しかし、新たに都心飛行ルートを設定すれば、最大90回まで増発できる。つまり、国際線の便数を現状の年間約6万回から最大約9.9万回まで大幅に増やせるのです」(星室長)

「市街地の上を飛行機が飛ぶのは珍しくない」

国交省は、新ルート採用による増便で「羽田の国際線旅客数が約1.5倍(1964万人)に増える」との予測を公表。経済効果は年間6500億円になると見込んでいる。しかし、新ルートの採用は、沖合移転によって確立した「海側から着陸、海へ向かって離陸」という考え方を覆すように映る。再び都民に騒音問題の懸念を抱かせることについては、どう考えているのか。

「空港のあり方は時代の要請によって変化する、その中でできるだけ騒音の影響を小さくする、というのが一貫したわれわれの認識です。今は機体性能が向上し、かつては100デシベルを超えることもあった飛行機の騒音も、70デシベル程度に抑えられていますから、かつてのような騒音被害は生じないと考えています」(星室長)

星室長によれば、そもそも国と住民側の間には、羽田空港の飛行経路の設定などに関する公的な「取り決め」や「合意」がなされた事実はないという。関係自治体の意見や要望も聞きながら、国として責任を持って騒音の低減に取り組んできた、というのが国のスタンスだ。

騒音については、別の見方もある。40年以上のパイロット経験を持つ航空評論家の小林宏之氏は、「現在、千葉県に集中している騒音負担を都内にも振り分ける必要がある」と提言する。

「羽田への着陸便の大半は、都心上空の飛行を避けるため千葉県上空を通過している。海上ルートのみでこれ以上の増便が見込めない以上、都心飛行ルートを解禁し、騒音を公平に負担しながら発着数の拡大を目指す発想があってもいいと思います」

新飛行ルートの下になる品川区内の住宅地(撮影: 塩田亮吾)

落下物リスクなどの安全性についても、小林氏は元パイロットの知見としてこう述べる。

「航空業界の安全管理は、いわゆるLCC(格安航空会社)を含め、国際民間航空機関(ICAO)が定める厳しい安全保証の規格に則っています。事実、過去10年間で脱落部品や氷塊などの落下物が報告されたケースは、成田と羽田を合わせても18件。年間1~2件と非常に低い確率です」

また南風時、飛行機がスカイツリーや東京タワーより低い高度で飛行することについても、次のように説明する。

「航空機の飛行は、電波によって正確に滑走路へ誘導する計器システムや、機体の位置を正確に測定する監視装置などによってモニターされており、十分な安全対策がとられています。ですから、騒音への一定の配慮のもと、市街地の上を飛行機が低空で飛ぶことは、世界的にも珍しくはないのです」(小林氏)

「空港をどう活かすか」の視点を欠いた空港建設の歴史

夜の羽田空港(撮影: 塩田亮吾)

航空行政に詳しい大妻女子大学の戸崎肇教授は、今回の羽田の新ルート運用とそれに伴う増便に関して高く評価しつつも、その実現には課題もあると指摘する。

まず、羽田空港の西側にある「横田空域」との運用調整だ。

横田空域とは1都8県にまたがる巨大な空域で、在日米空軍横田基地が進入管制を行っている。制度上、在日米軍に許可をとれば飛行は可能とされる空域だが、一便ごとに許可をとるのは難しいため、民間機の大半は横田空域を避けるルートを取っている。国交省が検討中の新ルート案は、一部がこの空域にかかっており、「実現には日米間での運用調整が必要となるでしょう」と戸崎教授は予想する。

一方、戸崎教授は、とにかく空港を作ることが第一義で、その後の利活用についての対策は不十分だったこれまでの空港建設の経緯についても言及する。

「羽田と成田で、国内線と国際線を分断してしまったのもその一例です。ですから、都心に近く、国内線とも連携しやすい羽田の国際線を増やし、ビジネス需要も取り込みながらフル活用する方向に舵を切ったのは正しい戦略でしょう。だが、羽田の国際線ばかり推進すると、成田の空洞化を招きかねない。今後、国は両空港をバランスよく活性化して首都圏の航空需要を支えていくという難題にも向き合う必要がある」

いずれにしても、政府目標の「2020年までに訪日観光客数4000万人」を達成するには、「羽田の飛行ルートの見直しは避けられない」と戸崎教授は見ている。

「2020年は、日本の空が変わる大きなチャンスです。ただし、焦って事を急ぎすぎるのは良くない。大規模な反対運動によって計画が頓挫すれば、経済的な損失は大きい。国は粘り強く住民の理解を得ながら、強い信念とビジョンを持って取り組むことが重要でしょう」

在日米軍横田基地(東京都福生市など)で進入管制を行っている横田空域。首都圏西部から新潟にかけての上空に、6段階の高度が設定されている。「飛行禁止区域」ではなく、米軍に申請すれば飛行は可能。2008年の空域見直しで合理的な経路を取れるようになったが、運航ごとの申請が煩雑なため、民間機、とくに定期便の多くは大きく迂回するか、上空を通過するルートをとっているのが現状だ。

アピールパレードの参加者たち(撮影: 塩田亮吾)

国交省は2015年夏から住民向けの説明会を順次開催。「住民側の要望に配慮した」とする修正案も公表しているが、都心の低空飛行ルートについては「引き続き、ていねいに住民のみなさんに理解を求めていく」(星室長)としている。

四十数年前、騒音から街を守るため国と対峙した江戸川区瑞江地区連合町会長・小野瀬二郎氏(前出)は、かつて住民側に配慮してくれた国に期待もかけつつ、再び我が街に騒音問題が再燃しかねない現状について、懸念ももっている。

「時代は移り変わるし、国が決めたことはある程度、受忍しなければならないこともわかっている。でも、われわれにも安全で安定した生活を送る権利がある。だからこそ、かつて多くの区民が立ち上がって国を譲歩させたように、自分たちの街は自分たちの手で守るほかない。それが空港と共存共栄していく最善の道だと私は思っています」

空の平穏を取るか。それとも、日本の成長という国益を取るか――。飛行ルートの問題は、東京都民にいま再び厳しい選択を迫っている。

アピールパレードに向けられた住民からの声援に、手を振り返す(撮影: 塩田亮吾)


庄司里紗(しょうじ・りさ)
1974年神奈川県生まれ。大学卒業後、ライターとしてインタビューを中心に雑誌、Web、書籍等で執筆。2012〜2015年までの3年間、フィリピン・セブ島に滞在し、親子留学事業を立ち上げる。現在はライター業の傍ら、早期英語教育プログラムの開発・研究にも携わる。明治大学サービス創新研究所・客員研究員。

[写真]
撮影:塩田亮吾
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝
[図版]
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