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宗石佳子

声失って編み出した「手話落語」――桂福団治、40年の軌跡

2019/08/26(月) 08:10 配信

オリジナル

上方落語界の大御所・桂福団治(78)。テレビ・ラジオで10本以上のレギュラー番組を抱えていた30代の時、一時的に喉の病気で声が出なくなり、仕事も失った。「なんとか自分の芸を残したい」――。その思いで取り組んだのは「手話落語」。それ以来約40年、第一人者として、弟子たちとともに活動の幅を広げている。福祉としてだけではなく、手話落語を確固とした文化へ。福団治の軌跡を追った。(三重テレビ/Yahoo!ニュース 特集編集部)

40年続けた「手話落語」

体育館に特設された高座に福団治が上がる。披露するのは「手話落語」。両手を大きく使った手話とともに張りのある声が響くと児童の笑いがどっと起きた。

津市立高茶屋小学校で開かれた落語鑑賞会。福団治は児童に理解できるように十分な間を取りながら演じる。演目が終わると、使った手話の一部を解説して、児童たちにも実践してもらう。

(撮影:三重テレビ)

全国各地の学校やショッピングモールなどで「手話落語」を披露する取り組みを福団治はもう40年近く続けている。きっかけは、喉の病気で一時的に声が出なくなったことだった。福団治は述懐する。

「声が戻らなければ、今まで培ってきた芸がゼロになってしまう……そうなれば、死んでも死にきれない。なんとか自分の芸を生かす方法はないかという思いが、手話と結びついたんです」

(撮影:宗石佳子)

声と仕事を失って

桂福団治(本名:黒川亮)は1940年、三重県四日市市の造り酒屋に生まれた。三代目桂春団治の華麗な芸風に魅了され1960年に入門。「一春」「小春」を経て1973年、四代目桂福団治を襲名した。

大阪・道頓堀角座(かどざ)での桂枝雀(しじゃく)、笑福亭枝鶴(しかく)とのトリプル襲名は大きな話題となり、福団治はテレビ・ラジオのレギュラー番組を10本以上抱えるようになった。1975年公開の映画「鬼の詩」(藤本義一原作)では主演を務め、芸能界で大きく飛躍しようとしていた。

(撮影:宗石佳子)

そのさなかに突然、暗雲がたちこめる。1977年、声の調子が悪くなり喉にポリープが見つかった。手術して3カ月間、声が出なくなったのである。持っていたレギュラー番組のほとんどを手放さざるを得なかった。福団治はこの時の気持ちをこう振り返る。

「やっと勝ち取ったレギュラーだったのに。とにかく、体の一部が削り取られる思いでした。でも落語というものを捨てたくはなかった……」

福団治は、手話教室を開くなど聴覚障がい者をサポートする施設「大阪ろうあ会館」の紹介でろう学校の教員と出会う。熱心に依頼すると、その教員は出勤前の朝7時頃から手話を教えてくれたという。3カ月で800語くらいをマスターした。

(撮影:宗石佳子)

手話を学んだのは、何としても自分の芸を残したいという思いだった。一方で、手話を学ぶ過程で聴覚障がいのある人たちとふれ合い、彼らに落語の面白さを伝えたいという気持ちも生まれていた。

声が出るようになって福団治は高座に復帰。一緒に手話を学んでいた聴覚障がいのある男子高校生が福団治の落語を聞きに角座を訪れた。その時、多くの観客は笑っていたが、彼だけはキョトンとしていたという。

なんとか彼を笑わせられないか――。福団治は落語に手話を取り入れようと、試行錯誤を始めた。しかし、落語はもともと音声を軸に笑わせる「聴覚芸」。手話の導入は誰もやったことがない。

例えば手話の特性からくる難しさがある。手話は、さまざまな言葉の意味を手の位置や形、動きなどの組み合わせで伝える。だから同音異義語を表現することができないのだ。

(撮影:宗石佳子)

となると、だじゃれでオチをつける、いわゆる「地口(じぐち)オチ」は伝わらないという。著名な古典落語の演目でも「肝心の心棒(辛抱)が狂ってます」(悋気の独楽<りんきのこま>)、「楊貴妃(ようヒヒ)に似ています」(猿後家)といった地口オチがある。

「内容(ストーリー)で笑わせなければならないんです」と福団治は話す。

独学で研究を重ね、時には喫茶店に男子高校生を呼んで見てもらうこともあった。

「ある時、その彼がワッと笑ってくれたんです。『受けた!』と思いました。それがきっかけで落語を手話で作り替えては彼に見せ、ネタが三つ、四つと増えていったんです」

親子の涙が押した背中

1980年、手話落語を初めて披露する機会が訪れる。会場は奈良県文化会館。福団治が落語に手話を取り入れていることを聞きつけた奈良県内の福祉関係者からの依頼だった。

観客は約1000人。そのうち聴覚障がい者が約2割を占めていた。ほとんど誰も見たことがない手話落語の初披露とあって、テレビ局や新聞社も数多く取材に来ていた。福団治はこの時、一抹の不安を感じていたという。それは、伝統を重んじる落語界の反応だ。

「何百年の伝統ある“聴く古典芸”を、“見る芸”に勝手に作り替えたら(落語界を)クビになるのと違うやろか」

(撮影:宗石佳子)

しかし、聴覚障がい者に楽しんでもらいたいという気持ちが上回った。

小噺や落語「時うどん」などを必死で演じた。身ぶり手ぶりをいつもよりオーバーにしたこともあり、大きな笑いが何度も起こった。気付いたら予定時間を30分も過ぎていた。

舞台の幕が降り、福団治が楽屋に戻った時、8歳くらいの男の子の手を引いた母親が訪ねてきた。男の子は福団治に握手を求め、母親はこう言ったという。

「この子は声が出ないし、耳が聞こえないんです。珍しい手話落語を見たいと言うので連れてきたら、この子、私の袖を引っ張って笑って……。こんなに笑った顔を見たのは初めて。息子の喜んでいる姿を見せてもらって、ありがとう……」

母親は福団治の手を握って涙ぐんだという。

「大きな励みになりました。喜んでもらってよかった。クビになっても続けていこうと思ったのは、このお母さんの言葉でした」

(撮影:宗石佳子)

「手話落語教室」を開く

1981年には「手話落語教室」を開いた。教室では障がいの有無を問わず生徒を受け入れた。

ある日、福団治は自身の体調が悪く教室を休講にしようとした。聴覚障がいのある生徒の家に休講を伝える電話を掛けたところ、生徒の母親が話す電話口の向こうから父親の声が聞こえてきた。

「うちの息子、まだ手話落語みたいなもんやってんのか。もう習いに行かせるの、やめとけ! 息子は見せ物やないんや」

福団治は振り返る。

「それまで“ええことしてますな”と言われてきたけど、反対してる家族もいるんやと知りました」

一方で「無料で教えてんのに何でそこまで言われなあかんねん」という思いもあり、「もうやめたろか」という気になった。教室を施錠しようと鍵を取りに行くと、その生徒が待っていた。ニコニコ笑って「先生!」と手を振る。

(撮影:宗石佳子)

「気が変わりました。彼(生徒)は昼間の仕事を終えて会社からここへ飛んできた……。親は反対してても子どもはこれだけ習いたいと思ってくれてるんや。親は親、子は子や」

福団治は、何事もなかったように「ほな、やろか」と、稽古に入った。

1995年12月、国立文楽劇場(大阪市)で手話落語の披露公演が行われた。舞台には、その彼の姿があった。そして客席には反対していた父親の姿。父親は、息子が高座に上がった姿を目にすると、ハンカチで目頭を押さえていたという。

福団治はしみじみと回想する。

「教室をやめんと続けてて良かったとつくづく思いました」

(撮影:宗石佳子)

活躍する手話落語の弟子たち

これまでに教えた生徒は200人を超える。手話落語の弟子は「宇宙亭」一門とし、名前をつけた弟子は約40人に上る。現在、福団治の指導を受けた宇宙亭福だんご、笑任、新福らが活躍している。

手話落語を始めて36年というベテラン・宇宙亭福だんごは、現在55歳。学校やショッピングモールで開かれる手話寄席で、師匠とともに舞台に上がっている。

ショッピングモールで手話落語を披露する宇宙亭福だんご(撮影:三重テレビ)

手話を学んでいた19歳の時、すでに手話落語に取り組んでいた先輩から「顔が面白いから手話落語にピッタリ」と引っ張られたのがきっかけだった。

手話落語を披露し、勤めていた会社で人気者になった。今では多くのファンもついている。

「オチをつくるのが難しいですが、自分は表情がいいと言ってもらうことが多い。手話と出合って良かったと思っています」

福だんご以外の弟子も、忙しい日々を送っている。福団治のマネジャー、今井三紗子さんは「(弟子たちに)福団治が仕事を頼んでも断ってくるんです」と笑う。

福団治と弟子たちの活動で、手話落語のすそ野は着実に広がっている。

「人生観が変わった」

手話落語は、古典落語を演じる上でも役立ったと福団治は語る。

「聴覚障がい者とふれ合う中で人生観が変わったんです。彼らと出会ったのをきっかけに、人情というものを重んじるようになりました」

(撮影:宗石佳子)

福団治がよく高座にかける演目は「藪入り」「蜆(しじみ)売り」「ねずみ穴」「南京屋政談」などのいわゆる人情噺である。人情噺とは、笑いに力点を置くのではなく、親子の情愛や家族の絆、人間同士の心のふれ合いを描いたものだ。

手話落語のほかにも、福団治を人情噺に傾倒させる出来事があった。1982年、次男の晃次くんを白血病で亡くしたことだ。当時、小学2年生。8歳だった。

1982年に晃次くんを亡くし、2018年には長年連れ添った妻で、ものまね歌謡芸人・翠みち代さんを亡くした(撮影:宗石佳子)

「どれだけ悔やんで嘆いたか。何日も思い悲しみにふけっていたのを思い出します。目に入れても痛くない分身を亡くしました。それで自然と人情噺に溶け込んでいったんです。演じているのではなく、心の神髄を表現できるようになった。決して息子は『無』ではなかった。僕に人情噺という大きなものを与えてくれたから」

3年ぶりに奉公から帰ってくる息子(藪入り)、寒い中で貝を売って歩く少年(蜆売り)など、福団治の噺には子どもが多く登場する。それは息子の死と無縁ではないのだろう。

(撮影:宗石佳子)

福団治が手話落語という世界を切り開いて40年近く。その将来をどう考えているのか。

「以前は福祉の分野での社会貢献という位置付けやったんです。でも今は健常者も含め多くの人が普通の娯楽として手話落語を見に来てくれるようになりました。将来は手話落語が電波で流れて、それを一般の視聴者が普通に楽しんでくれる。それが私の夢ですな。そして、そういう時は必ず来ます」

(撮影:宗石佳子)

桂福団治(かつら・ふくだんじ)
1940年、三重県四日市市生まれ。60年、三代目桂春団治に入門。一春、小春を経て73年、四代目桂福団治を襲名。78年、手話落語を考案し、81年に手話落語教室を開校。以来、手話落語の第一人者として活動する。81年、「上方お笑い大賞功労賞」受賞。98年、「文化庁芸術祭演芸部門優秀賞」受賞。関西演芸協会第10代会長、上方落語協会相談役。2019年10月6日、四日市市文化会館で開かれる第16回文治まつりに出演。10月26日には大阪松竹座で桂福団治芸歴60年記念公演を行う。


本記事は、三重テレビ放送とYahoo!ニュース 特集編集部による共同取材企画。三重テレビ放送は1969年開局の独立系テレビ局。三重県全域と愛知県の一部を放送対象とし、数多くの自社制作番組を放送している。公式サイトはこちら

[取材・編集]
小川秀幸(三重テレビ放送)
Yahoo!ニュース 特集編集部

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