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殿村誠士

俳優・石井正則、「差別の記憶」を撮る――ハンセン病療養所を巡って

2019/12/04(水) 09:48 配信

オリジナル

俳優の石井正則さんは、写真家としての顔も持つ。ここ数年、プライベートの時間を使って取り組んでいるのが、全国に13カ所ある国立ハンセン病療養所の撮影だ。使用する機材は「バイテン」と呼ばれる大型カメラ。2020年には写真展の開催も決まった。なぜ石井さんは療養所を撮り始めたのか、取材した。(ライター:神田憲行/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「これは撮らないといけない」

地面に立てた三脚に正方形の木の箱のようなものを取り付ける。箱の前の留め金を外すと、蛇腹が出てきた。蛇腹の先にレンズを装着し、木の箱にケーブルレリーズを取り付ける。通称「バイテン」と呼ばれる大型カメラだ。「バイテン」とは1枚のフィルムの大きさが8×10インチ(20×25センチ)であることに由来する。レンズが向けられているのは霊安堂。この施設で亡くなられた方の遺骨が納められている。

今年11月初旬、ここは宮城県登米市にある国立ハンセン病療養所・東北新生園だ。撮影しているのは俳優の石井正則さん(46)。国立のハンセン病療養所は全国に13カ所あり、石井さんはその全てを撮影して回っている。ここが最後の撮影地だった。

「バイテン」で撮影の準備をする石井さん

東北新生園の霊安堂。石井さんは撮影前に花を添えて手を合わせた(撮影:石井正則)

カメラにビニール製の暗幕を掛け、その中に潜り込む。ピント調整のため、遮光する必要があるからだ。その所作は淡々として、静かだった。石井さんは今までたったひとりで、こういう撮影を繰り返してきた。

「撮影のきっかけは、10年近く前にテレビのドキュメンタリー番組を見たことですね。香川県大島にある大島青松園でした。正直、それまではハンセン病とか療養所について、とくに関心があったわけでも知識があったわけでもありません。その番組で、亡くなった方を解剖する解剖台が紹介されていたんですね。ベッドみたいなんじゃなくて、本当にただの小さな岩みたいなもので。それを見た瞬間に、あ、これは撮らないといけないと感じたんです」

香川県・大島青松園の解剖台(撮影:石井正則)

それは記録に残す使命感のようなものかと問うと、石井さんは「使命感はむしろ撮り始めてからですね」と言い、首をひねった。

「なんだろう、僕が撮らないとというより、自分が撮るんだろうな、という感覚。なんか自分でもうまく言葉で説明できないところなんですけれどね」

石井さんは、芸能界きっての「撮り手」としても知られる。療養所を撮り始めたことは、その写真家としての芸術的衝動だったのかもしれない。

自分の中の気持ちを探りながら、撮影の動機を語る

「空気だけ撮らせてください」

実際に撮り始めたのは2016年。東京都東村山市にある多磨全生園からだった。

「最初に撮ったのは、入り口です。園に入った瞬間に空気の違いのようなものを感じて、衝撃的でした。僕はわりと『土地の記憶』というものを信じるほうなんです。今の全生園は普通に近所の人が通り道にするような開かれた場所じゃないですか。なのに閉ざされた空気みたいなものをそのときは感じたんです」

東京都・多磨全生園の入り口(撮影:石井正則)

石井さんの「土地の記憶」については、ハンセン病療養所の特殊な経緯を説明しよう。

ハンセン病は感染症の一種で、病名は1873(明治6)年、らい菌を発見したアルマウェル・ハンセンに由来する。感染した者の顔や手足に後遺症が残ることから偏見や差別の対象となり、世界で隔離政策がとられてきた。日本で最初に隔離を定めた法律は1907(明治40)年に「癩(らい)予防ニ関スル件」で、家族と縁を切って放浪する患者を隔離するのが目的だった。これにともない、国内に5か所の公立療養所が設立された。その後、1931(昭和6)年に「癩予防法」に改正され、全ての患者を対象とする強制隔離が始まり、感染が確認された者は否応なく施設に収容された。既存の公立療養所は国に移管され、新たに国立療養所は8か所増えて13園となり現在に至っている。施設を脱出しようとすると懲罰が与えられ、強制断種・強制中絶のような人権侵害が行われた。

らい菌の感染力は非常に弱く、その後に特効薬が開発されたこともあって、世界で隔離政策は廃止されていく。だが日本では1953(昭和28)年に「らい予防法」が新たに制定され、1996(平成8)年に廃止されるまで隔離政策は続いた。入所者たちは長年の隔離政策は違憲だとして、98年、熊本地方裁判所に提訴。2001年に原告全面勝訴の判決が確定した。現在、ハンセン病は完全治癒が可能で、療養所の入所者たちも治癒し「回復者」とも呼ばれている。

その「空気感」の体験から、石井さんはバイテンを使うことにした。

右手に持っているのはフィルムが入ったカットフィルムフォルダー。1枚のフィルムでこの大きさ

「撮るというより、この空気を閉じ込めなければならん、と。フィルムが大きい分、シャッターを切ると入る光の量が普通のカメラより多いですよね。それを閉じ込めて持って帰る。普通の35ミリのカメラでは一部抜粋みたいになっちゃう。たぶんデジタルカメラのほうが画質的にはバイテンよりきれいだと思うんですよ。ただ、きれいなデータは残るかもしれないけれど、光と空気は持って帰れない気がする。そのためにはやはりバイテンしかない」

それから石井さんの全国の療養所巡りが始まった。当初はハンセン病の歴史などあえて勉強せずに、現場に着いたときの感じ方を優先して撮っていった。療養所は人里離れた場所に建てられていることも多い。忙しい仕事の合間を縫って、ひとりで行き、ひとりで撮影をした。訪れる前に施設に「一般公開していますか、撮影してもいいでしょうか」と確認する。現地の受け付けで「あ、石井さんですよね?」と言われることもあれば、気付かれないままに撮影を終えることもあった。

「入所者の方のお邪魔にならないように、空気だけ撮らせてください、という感じの繰り返しでした」

撮影の決意とは

撮影は芸術的衝動から始まったが、途中から、使命感のようなものを得た。入所者は高齢化が進み、かつての設備も保存されているところもあれば、建て替えが進んでいるところもある。石井さんは「その場の光とともに、歴史の記憶も閉じ込める」と決意した。

例えば療養所には、入所者の使用した部屋が保存されている場合がある。

岡山県・長島愛生園で収容された者が最初に入る回春寮(撮影:石井正則)

入所する者が最初に入らされる消毒槽(撮影:石井正則)

療養所で入所者が亡くなると、外の一般の火葬場ではなく、施設内の火葬場で遺体が焼かれた。

鹿児島県・奄美和光園の火葬場跡(撮影:石井正則)

静岡県・駿河療養所の火葬場跡(撮影:石井正則)

特に反抗的だとされた入所者を収容する「重監房」も存在していた。

群馬県・栗生楽泉園の重監房跡(撮影:石井正則)

沖縄では、戦争の名残があった。

沖縄県・宮古南静園の敷地内にある機関銃壕の跡(撮影:石井正則)

沖縄県・沖縄愛楽園の被弾した壁(撮影:石井正則)

一方で、穏やかな今の生活を伝える光景もあった。

東京都・多磨全生園の桜(撮影:石井正則)

全ての療養所を一通り回り終えたのが、2019年6月。3年を要した。東北新生園は一度訪れていたが、なんと新幹線にバイテンのカメラを置き忘れたため、今回が再挑戦の撮影となった。

宮城県・東北新生園の旧小中学校校舎。入所者で学童年齢の子どもたちが通った(撮影:石井正則)

旧校舎は現在、資料館として活用されている。展示物を撮影する石井さん

旧校舎の資料館に保存されていた軍手用ミシン(撮影:石井正則)

14歳で入所して70年以上暮らす

今回の撮影では、石井さんが入所者自治会会長の久保瑛二さん(86)と話す機会もあった。

久保さんがここに来たのは1947(昭和22)年のこと。北海道函館市に住んでいた14歳のときに体に赤い斑紋ができた。医師に診せると「目をつぶって」という。目をつぶると、赤い斑紋のところに医師が注射針を刺した。だが久保さんは痛みを感じることができなかった。父母が呼ばれ、おそらくハンセン病だと告げられたのだろう。だが久保さんは父親から違う説明を受けた。

東北新生園入所者自治会の久保瑛二会長

「お前は結核だ。内地の病院に行って診てもらいなさい。昔ならもう元服している年だから、病院にはひとりで行けるだろう」

そう言って東北新生園の住所を書いた紙と交通費だけ渡されて、ひとりで連絡船に乗り、電車を乗り継いでやってきた。結核治療のつもりで来たが、どうも園の様子が違う。受け付けをすますと相部屋になる入所者さんに告げられた。

「お前はドスだ」

ドスとは地元の言葉でハンセン病のことだった。久保さんは言う。

「2年で結核を治して帰るつもりだったのに、70年もいるとは思わなかったな」

戦後すぐのことで、食糧の配給も回ってこなかった。自分たちで畑を耕し、ジャガイモ、カボチャを作って飢えをしのいだ。井戸からの水くみで、水桶を天秤棒でかつぐのがつらかったという。やがて特効薬のプロミンがようやく園にも徐々に回ってくるようになり、治療ができた。そして33歳で自治会長になり、ずっと続けている。

石井さんが言う。

「久保さんが会長になられて、そうやってひとつひとつ、東北新生園をよりよいものに進めてきたんですね」

久保さんはうなずいた。

「そうですね。昔はみじめという言葉では足りないくらい、みじめな思いをしてきました。辛い記憶を忘れるために、いろんなことをしてきました」

久保さんから話を聞く石井さん

いま園では久保さんの方針のもと、施設を地元に開放している。例えば、園内の池の周辺では夏に花火大会が行われ、地元の子どもたちの楽しみになっているという。最後に久保さんは嬉しそうに笑った。

「季節ごとに地元の農家の方が作物を持ってきてくれるんだ。昔、畑を耕すのに入所者たちが手伝ったから、そのお礼が今も続いているんだよ」

東北新生園にある池(撮影:石井正則)

撮り終えて、いま思うこと

朝10時から始まった石井さんの撮影は夕方まで続いた。石井さんは「療養所の撮影をここで終えたのは、なにかの象徴のような気がする」と語った。

「療養所というと、やはり隔離された施設という過去のイメージがありました。でも新生園は地元の方たちとの交流が盛んで、未来志向の療養所という印象を持ちました。最後にここで終えられて良かった」

撮り始めたころは発表など考えていなかったが、2020年2月から、国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)で写真展『13(サーティーン)~ハンセン病療養所の現在を撮る~』の開催も決まった。

「全国に国立の療養所は13カ所あるんですが、写真展を見に来られた方の(心の)中に14番目の療養所ができたらいいなと思います。それがなにか新しいことが始まるきっかけになる」

石井正則(いしい・まさのり)
1973年3月21日生まれ 1994年お笑いコンビ「アリtoキリギリス」でデビュー。2016年解散後も、俳優、タレント、ナレーターとして幅広く活動中。プライベートで、国立ハンセン病療養所13園をすべてまわり、大判カメラ「バイテン」などで、療養所の「現在」を撮影。2020年3月には、映画「Fukushima50」の公開も控える。2020年2月29日から5月6日まで、国立ハンセン病資料館(東京都東村山市青葉町4-1-13)2階企画展示室にて、石井正則写真展「13(サーティーン)~ハンセン病療養所の現在を撮る~」を開催する。

神田憲行(かんだ・のりゆき)
1963年、大阪市生まれ。関西大学法学部卒業。大学卒業後、ジャーナリストの故・黒田清氏の事務所に所属。独立後、ノンフィクションライターとして現在に至る。主な著書に『ハノイの純情、サイゴンの夢』『「謎」の進学校 麻布の教え』など。