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葛西亜理沙

「災害支援のプロ」――ブルーシートで被災家屋の屋根を守れ

2020/03/05(木) 07:33 配信

オリジナル

台風や地震で瓦が落ちた被災家屋がある。災害が去っても、高額な修理費、職人不足などの理由で修理に踏みきれない被災者は多い。NPO法人「災害救援レスキューアシスト」代表の中島武志さんは、そんな被災家屋の応急処置、事後のメンテナンスに取り組んでいる。被災者や被災自治体からお金をとることはなく、企業や団体・個人からの資金で組織を運営する。災害支援を専業に一年の大半を被災地で過ごす、日本では極めて珍しい「災害支援のプロ」――。なぜこの道を志したのか。被災地で何が課題になっているのか。現場に密着した。(取材・文:川口穣、写真:葛西亜理沙、岡本裕志/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「応急処置」は被災から5カ月たった今も

外房の海から吹きつける風がブルーシートをはためかせる。千葉県鴨川市、被災した家屋の屋根の上に中島武志さん(43)はいた。割れた屋根瓦を丁寧にどかしながら屋根にブルーシートをかけていく。

(写真:葛西亜理沙)

昨年9月、最大風速40メートルという観測史上最強クラスの勢力で関東地方に上陸した台風15号は、千葉県の房総半島一帯に甚大な被害をもたらした。県内の被災家屋は7万棟を超える。鴨川市でも約1770棟が被害を受け、市内には被災の爪痕が残る家屋が今も点在する。

中島さんは発災直後に鴨川入りした。それから5カ月。ボランティアらと協力しながら、高齢者宅や障害者宅を中心に300棟ほどの被災家屋にブルーシートを張ってきた。被災した屋根をそのままにしておくと、雨漏りなどで屋内が使えなくなってしまう。

屋根から下りてきた中島さんはこう言うのだった。

「ブルーシートは屋根の修理業者が来てくれるまでの応急処置です。被災者が家の中で生活ができるようにしたいですし、これ以上屋根が傷まないようにもしたい。大事な作業なんです」

(写真:岡本裕志)

多くの家屋が被災し、需要が急増した千葉県内では屋根の修理業者が今も足りていない。修理を依頼しても、いつ順番が回ってくるかわからない。手抜き工事で法外な料金を吹っかける悪徳業者もいる。壊れた屋根を応急処置してでも、何とか生活を続けなければならない人が大勢いる。

鴨川市の沿岸部で酪農を営む女性宅は、台風15号で屋根瓦の大半が落下。雨漏りで2階が水浸しになる被害を受けた。当初は自分たちでブルーシートを張るなどの応急処置をしたが、不安が募ったという。

「強い風が吹くと、ブルーシートがはためいていました。次に大きな台風が来たら飛んでしまうと思い、助けを求めたんです」

台風15号から1カ月後の10月。台風19号が接近するなか駆けつけたのが、中島さんたちだった。被災女性や家族が見よう見まねで張っていたブルーシートをはがし、丁寧に、強固に張りなおす。

「おかげで雨漏りを心配せずに避難することができました。その後も屋根に問題がないかと見に来てくれて、自分たちは忘れられていないと感じられました」

鴨川市での活動拠点。廃校になった小学校の旧校舎を市から提供されている(写真:葛西亜理沙)

一年の大半を被災地で過ごす

中島さんは、被災地支援を職業として担う「災害支援のプロ」だ。被災者や被災自治体からお金をとることはなく、社会福祉法人や企業からの助成金、寄付金で自らの組織を運営する。今年度も、「赤い羽根共同募金」などから助成を受けた。ほかにも多くの団体や個人が、中島さんの被災地支援に共感し、資金提供を行っている。災害ボランティアが一般的になり、被災地支援を手掛けるNPOなども増えてきたが、災害支援を専業として組織を回す人は極めて少ない。

そんな中島さんは、災害が起きると、「発災24時間以内」を目標に現地入りする。行政や社会福祉協議会と連携しながら、ボランティアセンターや避難所の運営を担ったり、ボランティアでは対応できない重機の操縦や屋根上の作業を請け負い、被災地に設けた拠点で寝泊まりしながら支援活動を続けていく。

中島さんの名刺には「災害救援レスキューアシスト 代表理事」とある。自らが立ち上げたNPO法人だ。常勤職員は中島さんひとりの小さな団体だが、非常勤で団体運営を手伝う仲間がいる。鴨川でも短期雇用のスタッフやボランティアとともに、市から無償で提供された小学校の旧校舎を拠点として活動している。

中島さんの作業着。団体名にもつく「災害救援」の文字は被災地で身元を明らかにするためのもの(写真:岡本裕志)

中島さんは、この団体の代表として給与を受け取りながら、一年の大半を被災地で過ごす。鴨川市の亀田郁夫市長は「支援のプロ」である中島さんをこう評する。

「私たち自治体や社会福祉協議会の職員は、被災地での経験がありません。いざ被災するとマニュアル通りには動けず、戸惑うことが多かった。中島さんは次に起き得る問題に先回りし、アドバイスをくれる。心強い存在でした」

台風15号の上陸から5カ月が経ち、屋根の修理依頼は少なくなった。鴨川市の災害ボランティアセンターも昨年10月末で閉鎖。それでも中島さんは、6月末までは「鴨川で活動を続ける」という。なぜそこまで“粘る”のか。

「自分から声を上げられない被災者がいるんです。この程度で頼むのは申し訳ないと我慢している人、そもそもどこに頼めばいいのかわからない人。肌感覚ですが、支援を依頼してくる人の倍くらい、依頼できずに困っている人がいるはずです」

(提供:レスキューアシスト)

「声を上げられない人を救いたい」

中島さんには、こんな経験がある。

2018年6月の大阪北部地震。発生から1年近くたった被災地で出会ったのは、屋根瓦が破損した家屋でブルーシートも張らずに過ごしていた老夫婦。雨漏りで、部屋にはカビが大量に発生していた。屋根の修理業者には「1年待ち」と言われたが、「自分たちよりもっと困っている人がいるはず」と、助けを求めていなかった。

「自分から手を挙げられない被災者を見つけ、取り残さない。それが僕らの役割です」

そんな中島さんを見て、ともに鴨川で活動した被災地支援団体「日本レスキューボランティアセンター」の木家浩司副理事長はこう言う。

「たけちゃん(中島さん)がやっているのは、技術的な応急処置だけではない。屋根の下にある、被災者の暮らしを守っているんです。彼らの心に寄り添って見捨てない。そんな気概を感じます」

屋根瓦が破損し、雨漏りする家(提供:レスキューアシスト)

繰り返しになるが、中島さんの団体は被災者や被災自治体からお金を取ることはない。もたらされる助成金と寄付金のほとんどは資材代や重機のレンタル費など活動資金に充てられ、中島さんが給与として受け取るのはごくわずか。

何を支えに活動を続けているのか。

「ありきたりだけど、人の役に立てることがモチベーションです。泣きながら困りごとを話していた住民さんが、笑顔になってくれたときはやりがいを感じます」

人の役に立てる。そのことが喜び――。

中島さんは、中学卒業後、職を転々としてきたという。とび職、テキ屋、調理師、介護職員……。どれも長続きしなかった。

「天職だと思えるものが見つからなかった。2、3年ごとに職を変えては中途半端に生きていました」

(写真:岡本裕志)

介護タクシーの事業を始めようとしていた2011年、東日本大震災が起きる。テレビに映った宮城県石巻市の避難所映像を見て、人生観が変わったという。

「小学校3年生くらいの男の子が、欲しいものを聞かれて『トランプ』と答えていた。避難所にいるおじいちゃん、おばあちゃんが寂しそうだから、僕が一緒に遊んであげるんだと。涙が止まらなくなりました」

ミニバンの天井いっぱいまで支援物資を積み込み、大阪の自宅から東北を目指した。石巻に入ったのは震災から8日後の3月19日。初めての被災地だったが、職を転々としてきたことがここで役立った。スコップで泥を掻き出すのも、炊き出しをするのも、避難所で高齢者の介助をするのも全部やってきたことだったのだ。

「自分の力が人の役に立つことを生まれて初めて実感しました」

自分で自分のことを誇れる。誇っていいんだ――。当初3日ほどと考えていた東北でのボランティア活動は、85日にも及んだ。

その後は建設会社に勤めながら、各地で災害が起こると現地入りして支援活動する生活を始めた。那智勝浦(和歌山・2011年)、南木曽(長野・2014年)、常総(茨城・2015年)など、全国の台風・豪雨被災地で経験を積んでいく。

(写真:葛西亜理沙)

ブルーシート張り、最初は断った

そして2016年2月、ある決心をする。

「仕事を辞め、災害支援のプロになる」

こう宣言し、現在の団体「レスキューアシスト」を立ち上げた。5年間で知り合った全国の仲間が資金を寄付してくれた。2カ月後、熊本地震が起こる。多くの家屋で屋根瓦が落ちる被害があった。被災地では瓦屋や工務店は多くの依頼が集中し、パンク状態。災害ボランティアセンターでは屋根上の作業は受け付けない。

被災者の窮状は知っていたが、中島さんも当初は屋根のブルーシート張りを断っていたという。

「危険だし、わずかな保険以外、保障もない。僕が落ちるならまだしも、作業をお願いしたボランティアさんが落ちたらどう責任を取ればいいのか。でも、被災地にできる人がいなかった。もし一緒に活動する人がケガをして後遺症が残るようなことがあれば、自分ができる限りの援助をしようと決めました」

ボランティアから建設業経験者などを募り、ブルーシート張りを始める。確立された技術がないなか、屋根に上って試行錯誤を繰り返した。熊本で活動した2年間でのべ600軒ほどにシートを張った。

被災した鴨川の民家(提供:レスキューアシスト)

そのなかで背中を追う人が現れた。

熊本市に住む吉住健一さん(34)は、被災した数日後、中島さんと出会った。自宅が全壊し、たどり着いた避難所で中島さんの活動を目の当たりにした。

「それまでボランティアに興味はなかったけれど、被災して家もなくなった自分が何とか生きていけるのは、彼らのような人がいるからだと知りました」

その後吉住さんは、中島さんと一緒に、被災家屋のブルーシート張りに打ち込むようになる。そして、中島さんが熊本を離れた今も活動を続けている。

中島さん(右)と吉住さん(左)(写真:葛西亜理沙)

ブルーシートは一度張って終わりではない。通常は3カ月から半年、どんなに丁寧に張っても1年ほどで劣化したり、はがれたりしてしまう。定期的なメンテナンスが必要だ。吉住さんは言う。

「生活に余裕がなく、ローンも組めず転居もできずという方がいます。だから、もう少し続けます」

中島さんもこう続ける。

「災害支援は引き際が難しい。外の人間がやり続けるのはよくないけれど、突然いなくなるのもダメ。彼に引き継げたから熊本を離れることができました」

台風に「完敗」だったブルーシート張り

2018年6月からは、大阪北部地震の被災地、大阪府茨木市で活動を始めた。9月、現地を台風が襲う。

「熊本で経験を積みましたし、僕が張ったブルーシートは強風でも飛ばない自信がありました」

しかし、結果は「完敗」だった。ブルーシートを固定するための土嚢が強風で飛ばされ、別の家の窓ガラスを突き破った。土嚢は「凶器」になることを知った。

この失敗をきっかけに、中島さんは瓦職人ともディスカッションを重ね、新しいブルーシートの固定方法を編み出した。新しい固定方法は、土嚢を使わない。まず、ブルーシートに木の板を取り付ける。その後屋根に残った瓦に穴を開け、瓦と木の板をシャフトで固定する。土嚢を使わずに済み、固定力も高いとして各地のボランティア団体や工務店にも広まった。

土嚢を使わない固定方法を指導する中島さん(写真:岡本裕志)

仲間とともに、段ボールを使った簡易瓦「アシスト瓦」を考案したのもこのころだ。

「瓦が数枚割れただけの比較的小さな破損なら、ブルーシートは非効率。瓦と同じサイズに切った段ボールを防水シートでくるみ、瓦の代わりに差し込む方法を考えました」

アシスト瓦はつくり方が簡単で誰でも製作できるほか、現地に赴かなくても被災地支援ができる。昨年の台風15号の後に製作を呼び掛けると、全国から鴨川へ手作りのアシスト瓦が届けられた。

宮城県石巻市での製作会の様子。「何かしたかった」「震災時の恩返しを」と3日間でのべ50人ほどが集まった(提供:岩元暁子/石巻復興きずな新聞舎)

右下がアシスト瓦。瓦の欠けた位置に差し込む。中身は段ボール。中島さんは製作方法を公開し、瓦は誰でもつくることができる。拠点には全国各地からアシスト瓦が集まってくる(写真:岡本裕志)

鴨川では、自衛隊にもブルーシートの張り方や屋根上での安全確保術、アシスト瓦の使用法などを講習した。

自衛隊も取り入れたノウハウ

今回鴨川に派遣された自衛隊には倒木や土砂の除去のほか、「損壊した要支援者宅に対する一時的な防水措置」、つまりブルーシート張りが任務に含まれた。しかし、自衛隊には屋根上での作業ノウハウの蓄積がない。市職員の紹介もあり、中島さんの教えを受けたという。民間と自衛隊による災害時の連携は、これまであまり見られなかった取り組みだ。

鴨川に派遣されていた陸上自衛隊第36普通科連隊の黒木博仁2等陸尉はこう話す。

「中島さんのレクチャーを受けたことでより正確に、素早く活動でき、隊の能力を発揮するうえで大きな力になりました。今後も、災害現場で自衛隊と民間団体が連携することは重要だと思います」

鴨川で。自衛隊員らにブルーシート張りなどをレクチャー(提供:レスキューアシスト)

中島さんは今や、被災家屋へのブルーシート張りの第一人者とみなされている。そして、災害現場を支える支援のプロの存在は、今や被災地に欠かせないものとなった。

大阪府茨木市の社会福祉協議会に勤める佐村河内力さんは、大阪北部地震の直後に中島さんらに救援を求めた経験がある。混乱する現場、で中島さんが専門技術を持ったボランティアをまとめ、社会福祉協議会では対応できないタスクをこなしたという。佐村河内さんは、災害支援のプロが持つ役割をこう語る。

「中島さんのような災害支援のプロが被災地で受け入れ態勢をつくってくれるからこそ、専門技術を持ったボランティアもそこに集まってくるし、彼らの力がより一層発揮される。被災地に彼らのような支援のプロがいることで、ひとりの力以上のものが生まれるんです」

支援のプロがいることで、ボランティアの力は効率的に発揮され、より大きな存在になり得るというのだ。

一方で、課題も突き付けられている。中島さんのような災害支援のプロを公的に支える仕組みが存在しない。一年の大半を被災地で過ごし、発災初期は不眠不休で対応に当たりながら、寄付などで支えられたわずかな収入しか得られない。ケガへの保障も不十分だ。

災害支援に情熱を持ちながらも、生活への不安から「プロ」になることをためらう人もいる。

中島さん自身、災害現場にはもっともっと多くの支援のプロが必要だと話す。

「広い範囲が被災する広域災害では、僕らが支援に赴けない被災地が出てきてしまう。限界があるんです。だからこそ、僕らと同じように技術をもった支援のプロが増えてほしい。そうしたら、復興のスピードも質も変わるはずです」

災害支援を職業として生きる、支援のプロ。災害が多発するいま、彼らを社会的に支える仕組みが求められている。


川口 穣(かわぐち・みのり)
1987年、北海道生まれ。山岳雑誌編集者を経て週刊誌記者に。 災害、復興、山岳、アウトドアを中心に取材、執筆する。