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長谷川美祈

今も年間40万人以上が死亡――マラリア撲滅に立ち向かう世界と日本企業

2018/08/20(月) 09:46 配信

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8月20日は「世界モスキートデー」とされている。1897年のこの日、マラリアの感染がハマダラカによることを、英国の医学者ロナルド・ロスが発見したことにちなんだ。マラリアは現在でも毎年約2億人が感染し、40万人以上が死亡している。蚊は「最も多くの人間を殺す生物」と言われている。マラリア撲滅に貢献する世界と日本企業の取り組みを紹介する。(ライター・今井尚/Yahoo!ニュース 特集編集部)

血液を破壊するマラリア

マラリアの研究を続ける医師、狩野繁之さん(撮影:長谷川美祈)

国立国際医療研究センター研究所(東京都新宿区)の熱帯医学・マラリア研究部部長、狩野繁之(かのう・しげゆき)さんの研究室で、顕微鏡をのぞかせてもらった。丸い赤血球がいくつも見えた。その中に一つだけ、紫の小さな点を含むものが見える。

「これがマラリア原虫に感染した赤血球です。さらに進んだ症例もお見せしましょう」

狩野さんはそう言いながら、血液サンプルを載せたプレパラートを差し替えた。今度は一面紫色。ほとんどの赤血球に原虫が侵入していた。こりゃ、ひどい。直感的にそう思った。

丸い大きな粒は赤血球。そのなかに濃い色で見えるのがマラリア原虫だ(撮影:長谷川美祈)

マラリアはハマダラカの媒介によってヒトに感染する。蚊が人の血を吸うとき、蚊の体内(唾液腺)にいた、マラリアの元凶となる寄生虫「マラリア原虫」が人の身体に侵入するのだ。原虫は体内に入ると、いったん肝臓に潜んで増殖する。そのあと血液の中に散らばり、赤血球に侵入してその内部で増殖し、やがて赤血球を破壊する。その際、人は高熱を発する。原虫はハマダラカが感染者の血を吸ったときに再び取り込まれ、他の人に伝播していく。

「人のマラリアには熱帯熱、三日熱、四日熱、卵形の4種類があり、最も恐ろしいのが熱帯熱マラリアです。発熱の状態が長く続き、原虫が増殖するスピードが速い。仮に血液中の赤血球の20%に原虫が寄生したとすると、2日後に原虫が赤血球を破壊した途端、一気に20%の血液が失われたようになります。途端に貧血になり、腎不全を起こし尿が真っ赤になるなどして、人間は死んでしまう。輸血をして血漿のバランスをとりますが、赤血球の5%以上に寄生すると治療が追い付かず、かなり危ないです」

蚊と人間の体内を往復しながら暮らす、マラリア原虫の不思議な生活を説明する狩野さん(撮影:長谷川美祈)

「マラリア」はイタリア語の「mal(悪い)aria(空気)」が語源。日本では平清盛もマラリアで亡くなったとされる。

WHO(世界保健機関)によると2016年、世界のマラリア患者は推定で2億1600万人を数え、44万5000人が命を落としている。患者の9割はアフリカで感染し、死亡者の7割は5歳未満の子どもだ。2分に1人の割合で子どもの命が奪われている。

マラリア対策に立ち向かう日本

このマラリアの撲滅に、NPO法人「マラリア・ノーモア・ジャパン」の長島美紀さんは「日本はかなり貢献してきた国です」と言う。きっかけは2000年に日本で開催された主要国首脳会議(九州・沖縄サミット)だ。そこで日本が提唱し、2002年に「世界エイズ・結核・マラリア対策基金(世界基金)」が生まれた。世界各国の政府や民間がこの「世界基金」に拠出した金額は2017年3月末までに総額約400億ドル。そのうち日本政府は、27億9652万ドルを拠出してきた。

マラリア撲滅に取り組んでいる日本企業もある。マラリア対策には「予防」「検査」「治療」の三段構えが必要だ。「予防」分野でリードするのが住友化学(本社・東京都)である。アフリカなどに日本でも古くから使われてきた「蚊帳」を届けてきた。同社代表取締役専務執行役員の西本麗さんは、こう語る。

「これはわれわれの技術によってこそできる国際貢献なのです。チャリティーでは長続きしない。これはビジネスですが、住友化学の長い技術の蓄積が公衆衛生のために役立つ。そこが心に触れてやっています。だから今でも社内で“もうからんでいい、トントンでいい”と言っています」

蚊帳プロジェクトを進める住友化学の西本麗さん(撮影:長谷川美祈)

マラリア対策で蚊帳が注目されたのは1980年代だった。ハマダラカは主に夜間に活動するので、寝ている間に蚊に刺されないことが予防と拡散防止に有効だ。WHOはアジアなどで伝統的に使われてきた「蚊帳」の使用を推奨した。とくに殺虫剤を染みこませた蚊帳は、網に触れた蚊を殺すことで感染を防ぐ。ところが従来の蚊帳では染みこませた殺虫剤の効果が経年劣化するため、定期的な再処理が必要だった。

そこで住友化学は、蚊帳の素材となる樹脂に殺虫剤を練りこむ技術を1980年代後半に開発。手間のかかる再処理は不要で、洗濯しても数年間は殺虫剤がゆっくりと染み出すようにした。樹脂と殺虫剤の両方の技術を持つ総合化学メーカーの住友化学の強みが生かせた。

殺虫剤を練りこんだ住友化学の蚊帳「オリセットネット」。風通しを考え、網の目はあえて広くしている。蚊が網に触れると殺虫成分に触れ、死ぬという(撮影:長谷川美祈)

当初は社内の空気は消極的だったが、当時の米倉弘昌社長の主導で蚊帳事業を本格化。タンザニアの会社に技術を無償で与えるなどして、現地生産で増産体制を整備した。

「アフリカで物をつくるのは相当大変でした。スピードも時間の感覚も違う。必要なのは技術力だけではなく、最終的には困っている人たちを救いたいというパッションですよ。これで貢献するんだという熱意が必要。ビジネスライクでやったら、どう考えても厳しい」

蚊帳を現地生産することで雇用も生み出している Photograph (C) M. Hallahan / Sumitomo Chemical

住友化学が2001年以降、供給してきた蚊帳の数は2億張り以上に上る。2015年にネイチャーに掲載された論文によれば、2000年から15年までの間に、6億6300万人のマラリア患者数を削減できたとされるが、そのうち住友化学のような長期残効農薬蚊帳(LLIN)の貢献は68%とされる。マラリア対策において蚊帳の貢献は大きいのだ。

一分でマラリアを見つける

医療検査機器などのメーカー、シスメックス(本社・兵庫県)第一エンジニアリング本部長の内橋欣也(うちはし・きんや)さんは、今年、訪れた西アフリカのガンビアで見た光景を今も忘れない。

「アフリカでは発熱したわが子を抱え、遠く離れた診療所に徒歩や自転車で通う母親の姿をあちこちで見かけました。お金の行き届いていない地域には検査も薬も行き届かない。こうした親子を見ると、どうにかして早期発見、早期治療につなげたいと思います」

「血液検査でマラリアを早期発見し、早期治療ができれば、患者本人だけでなく周囲への感染拡大も防げる」と話す内橋欣也さん(撮影:八尋伸)

シスメックスは赤血球や白血球を測る血液検査装置において、シェア世界1位を誇る医療機器メーカーだ。いま取り組んでいるのは新たなマラリア検査装置である。

現在、日本でマラリアを診断するのに認められている検査方法は、顕微鏡でのぞいて確認する方法(冒頭で狩野さんが見せてくれた方法)と、ヒトの血液の中から原虫のDNAを増幅するPCR法がある。伝統的な顕微鏡検査ではマラリアの種類や感染度合いも安価に分かるが、手間がかかり、技術も必要だ。一方、PCR法は顕微鏡以上に感度が高いものの、12~24時間と長い時間を要する。マラリアの検査は「早く、安く、簡単に、精度よく」できるほうがよい。

インドネシアの病院でのマラリア患者の治療の様子(提供:Kuni Takahashi / Malaria No More Japan)

シスメックがマラリア検査装置の研究を始めたのは1990年代だった。看板商品である血液検査装置に、マラリア検出機能を付け加えようと考えた。

「われわれの血液検査装置は、採取した血液の中の赤血球や白血球などにレーザー光を当て、まるでCDプレーヤーがディスクを読み取るかのように、血球の情報を一瞬で読み取っていくんです」

研究初期からマラリアの一部をとらえることには成功していた。だがその先に壁があった。赤血球の中で原虫が増えてからでないとマラリアを検出できないのだ。最も危険な熱帯熱マラリアの場合、原虫が増えた赤血球は血管内にとどまる。つまり血液を採取してもそこには存在しない。これでは検査に使えない。

「赤血球に入り込んだばかりの小さなマラリア原虫をとらえる必要がありました。そこで、これまで使っていた赤いレーザーを、ブルーレイなどにも使われる青に変えたのです」

2017年に研究用として完成した「XN―30」という機器は「血液をセットし、1分で分析が終わります。誰にでも操作でき、感染の度合いも幅広くわかる」という。

マラリアを検出できる検査装置を紹介する内橋さん(撮影:八尋伸)

さらに、そのマラリアが熱帯熱なのか、三日熱なのかも見分けることができることも分かった。現在、すでに実験用が国内外で使われていて、実証を重ね、後、診断用として市販が認められれば「マラリア撲滅に向けたインパクトはかなり大きいのでは」と内橋さんは言う。マラリアを高速、大量、定量的、簡便に検査する方法は今のところないからだ。

薬剤耐性マラリアの登場

国際社会の取り組みによって、マラリアの患者数や死者数は確かに減ってきた。WHOによると、2000年から2015年までに、マラリアによる死亡率は全年齢において60%低下した。そして「2030年までに全世界のマラリア発生率と死亡率を2015年比で90%削減すること」などを目標に掲げている。

マラリア対策の拠出金が増えるに従って、マラリアによる死者数は減っていった(Malaria No More提供図版を元にYahoo!ニュース 特集編集部が製作)

ところが最近になって、その目標に悲観的な見方が出始めている。感染者数が下げ止まるばかりか、増加しはじめたのだ。診断技術の発展で、今まで見落とされていた患者が数えられるようになったこともある。だがそれだけではないようだ。

タンザニアの病院で蚊帳が配られた(提供:Malaria No More Japan)

マラリアに感染した患者には、体内のマラリア原虫を殺す薬(抗マラリア薬)が投与される。患者本人の命を救うだけでなく、さらなる感染を防ぐうえでも治療は重要だ。

ところが抗マラリア薬が効かない「薬剤耐性マラリア」がこれまでも繰り返し発生してきた。前世代の薬、クロロキンに耐性が発生したのは1950~60年代。その後も新薬と原虫の「いたちごっこ」が続く。

現在、最も有力な抗マラリア薬は「アルテミシニン」という薬。2015年にノーベル賞を受賞した中国の化学者・屠呦呦(トゥー・ユーユー)が古文書をヒントに再発見した薬で、いくつかの薬と組み合わせて使われる。

ところがこのアルテミシニンにも、薬剤耐性マラリアが報告され始めてきた。

その地域は東南アジアだ。薬剤耐性マラリアは必ずと言っていいほど東南アジアで最初に出現するという。冒頭で紹介した国立国際医療研究センター研究所の狩野さんは、

「理由は分かりません。ただアジアはアフリカに比べて使われる個人当たりの薬の量が多いため、原虫に突然変異が生じて耐性がついたり、耐性を持った特別な原虫が生き残ったりするのでは、というのが有力な仮説です」

また、アジアで蔓延(まんえん)するニセ薬の存在もある。

「問題なのは、本当の成分が少しだけ入っている薬です。これを服用すると体内で生き延びる原虫が出てくる。それが抗マラリア薬に耐性を持つ原虫を選び出す可能性があります。アジアの薬剤耐性マラリアを封じ込めなければ、世界に広がって甚大な被害が出る」

研究用のマラリア原虫が保管されていた=東京都新宿区の国立国際医療研究センター研究所(撮影:長谷川美祈)

日本にとっても「他人事」ではない。日本では1959年に滋賀県、1960年代には米軍施政下の沖縄でマラリアを撲滅した。国内でのマラリア感染がなくなって半世紀以上たつが、日本の今を「休火山」にたとえる研究者もいる。

韓国では1970年代後半にマラリアの撲滅宣言が出されたが、1993年に再び感染が確認され、一気に再流行へとつながった。北朝鮮との国境付近で働くの兵士が感染したことがきっかけとされている。日本でも現在、海外で感染して帰国後に発症する例が年間50~70例程度あり、なかには亡くなる人もいる。

もちろん、日本で今すぐマラリアが蔓延する可能性は低い。だが同じく蚊を媒介とするデング熱は2014年、約70年ぶりに首都・東京で感染が確認された。前出の「マラリア・ノーモア・ジャパン」の長島さんは、「日本人は感染症への意識が低い」と指摘する。たとえば激減したはずの梅毒の患者数は2017年、44年ぶりに5000人を超えた。エイズの新規患者報告数は欧米では減少傾向だが、日本では横ばいだ。

セネガルで蚊帳の配布活動をする長島美紀さん(提供:Malaria No More Japan)

「いまや感染症に国内か国外かという区別はあまり意味を持ちません。“自分は大丈夫”という根拠のない自信と無関心は、自分を危険にさらすだけでなく、被害を広げてしまうことにもつながる」と長島さんは指摘する。

長島さんらマラリア・ノーモア・ジャパンの目標は「2030年までにアジアでのマラリアによる死者をゼロにすること」だ。そこには国内感染ゼロを達成した日本の技術と知見が大きく貢献できるに違いない。


今井尚(いまい・しょう)
ライター・編集者。1978年、愛知県出身。旅や冒険をする人たちを応援する非営利の出版社「旅と冒険社」を主宰する。極地に学び、人の暮らしを支える活動をするFIELD assistant副理事長。

[写真]
撮影:長谷川美祈、八尋伸
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝