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小池義弘

【日本の名カメラマン】 マイケル・ジョーダンの劇的シーズンを、密着撮影した男

2020/08/16(日) 17:12 配信

オリジナル

世界最高峰のプロバスケットボールリーグNBAで、今もなお‟神様”とたたえられるマイケル・ジョーダン(57)。「現役最終年」といわれ、劇的な優勝を飾った1997-98年シーズン、ジョーダンに密着した日本人カメラマンがいた。小池義弘氏(59)だ。世界中から取材申請が殺到する中、なぜ小池氏は密着撮影をすることができたのか。ファインダー越しに見た神様の素顔とは――(取材・文:青木美帆/Yahoo!ニュース 特集編集部)

※本文写真でクレジットのないものは、すべて小池氏撮影

ドキュメンタリー放映でファン熱狂

ジョーダンは、世界中がステイホームを余儀なくされた今春、多くの人々を再び熱狂させた。

4月から5月にかけて、動画配信サービス「Netflix」は、シカゴ・ブルズが最後に優勝を飾った1997-98年シーズンまでを追跡したドキュメンタリー10部作『マイケル・ジョーダン:ラストダンス』を放映した。

1997年のジョーダン

反響はすさまじく、アメリカ国内だけで累計1億2千万人が視聴し、国外でも2300万人以上が見入った。弱小だったブルズに6度の優勝をもたらした‟神様”の姿は、アフター・ジョーダンの世界しか知らぬ若い世代にも鮮烈なインパクトを与えた。

小池氏は、このシーズンのブルズとジョーダンを密着撮影した日本人カメラマンだ。『ラストダンス』でも、コート脇でカメラを構える小池氏の姿がたびたび映り込んでいる。

このシーズン、小池氏はブルズのホーム試合のほぼ全てを撮影。さらにプレーオフは全21試合を撮影した。ジョーダンがラストショットを決めて、劇的な優勝を飾った6月14日のファイナル第6戦も、コートサイドにいた。

1998年6月、ユタ・ジャズとのNBAファイナル

「なぜ、そのようなことが可能だったんですか?」という問いに「たまたまじゃないですか」と笑った小池氏。しかし話を聞いていくと、世界最高峰の現場で認められた男の確かな腕と、ほとばしるような熱意が見えてきた。

異色の経歴

小池氏は、高校卒業後に京都の社会人野球で4年間プレーし、料理人を経てプロカメラマンになった異色の経歴をもつ。写真の専門学校に通ったことはない。社会人時代に趣味で写真を撮っていたところ、知人から「自分が出走するオートバイのレースを撮ってほしい」と言われ、レース場に足を運ぶようになった。

被写体は、最高時速300キロで爆走する小さなバイク。素人カメラマンが一朝一夕で撮れるものではない。小池氏が最初に撮った写真も、ピントがボケたりブレたりしていた。しかし、野球で鍛えた動体視力が物を言ったのか、バイクは確実に写真中央に収まっていた。「みなさん、あれはかなりびっくりしてましたね」と小池氏は懐かしげに振り返る。

1988年に撮影した「全日本ロードレース最終戦、MFJグランプリ」の平忠彦選手

専門誌を読みあさり、現場のカメラマンの技術を見よう見まねで取り入れながら、小池氏は腕を磨いた。気づけば、高度とされる‟流し撮り”を自在に表現できるようになり、周回するバイクをマニュアルフォーカスで追いかけ続けるという超絶テクニックも身につけていた。

23歳で会社を退職し、実家のレストランで料理人をしながら撮影を続けていたが、めきめきと実力をつけていく小池氏を編集者が放っておくはずもなかった。小池氏もカメラマン一本で勝負することを決めた。29歳の時だった。

1990年に撮影した鈴鹿8時間耐久レース

Number編集部にアピール

仕事は順調そのものだった。バイクに加えて車の撮影も依頼されるようになり、独立してわずか数年で、1カ月に60本もの撮影を請け負うようになっていた。

仕事が増える一方、「儲からなくてもいいから、球技スポーツを撮りたい」という思いもわいてきた。当時、唯一の総合スポーツ雑誌だった「スポーツ・グラフィック ナンバー」(文藝春秋)編集部を訪問し、簡単なポートフォリオを見せたところ、プロ野球の撮影をやらせてもらえることになった。

初めて撮った写真は、いきなり見開き掲載された。名ショートとうたわれた吉田剛(近鉄など)のジャンピングスロー。「けっこう撮れるという評価をもらって、そこからスポーツの仕事をさせてもらえるようになったんです」

文藝春秋社(東京都千代田区、撮影:編集部)

初めてのNBA観戦

ナンバーでの仕事を始めたのと同時期に、小池氏は車雑誌の撮影で初めてアメリカに行き、合間にNBAを観戦した。

一息つく間もない目まぐるしい攻防に、小池氏は圧倒された。帰国後すぐにナンバー編集部に連絡し、「NBAを撮影したい」とアピールした。2週間後に渡米し、各地の試合会場で撮影。さらにその1カ月後にも飛行機に飛び乗っていた。

試合会場が明るくなく、被写体の動きが速いバスケットボールは、数あるスポーツの中でも撮影が難しいとされている。しかし、最難関レベルのオートバイ競技でならした小池氏にとっては、それほど苦にならなかった。

撮影した写真をナンバーの編集者に見せると、「いろんな人がNBAを撮ってきたけど、こんなにピントが合ってる写真を初めて見ました」と驚かれた。

得意な気分になった小池氏に、編集者は続けた。「でも、ジョーダンの写真がないですね」

ときは93年。ジョーダンはすでにNBAのスーパースターとして君臨していた。「そんなにすごい選手ならば撮ってこようじゃないか」と、小池氏はNBAに撮影の申請をして、アメリカに渡った。

(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

そこで、小池氏は“バスケットボールの神様”との運命的な出会いを果たした。

「練習のときから一人だけ雰囲気が違うんです。オーラがあるというか、存在が違うというか。試合が始まったらもっと変わりました。その日、ブルズは残り3分を切って15点くらい負けてたけど、ジョーダンだけは『まだ勝てる』と思ってプレーしているのがファインダー越しに伝わってくるんです。その姿を見て、すぐに惚れちゃって。スケジュールの都合上、あと1試合しか撮れないと気づいた瞬間に、ものすごく落ち込んだのをよく覚えています」

それまで小池氏はNBAだけでなく、野球のメジャーリーグ(MLB)なども撮影し、マーク・マグワイアやウエイン・グレツキー(NHL)ら多くの名アスリートを撮ってきた。しかし、ジョーダンほど心を揺さぶられる存在はいなかった。

その年のシーズン後に現役引退を表明したジョーダンは、2年のブランクを経て95年に現役復帰。以後、小池氏はジョーダンを撮ることを一番の目的に、日本とアメリカを往復する生活を送るようになる。

一泊30ドルの安いモーテルを渡り歩き、昼はMLB、夜はNBAといったダブルヘッダーは当たり前。経費は基本的に自己負担なので、多くの写真を撮って雑誌社に売り込む必要があった。ブルズの本拠地であるユナイテッド・センターでの撮影は、毎年最低10試合をスケジューリングした。目当てはもちろんジョーダンである。

95年に背番号「45」で復帰したジョーダン

ジョーダン引退の噂

ブルズの2年連続5回目の優勝で締めくくられた96-97年シーズン。その直後から、メディア関係者の間で「ジョーダンが次シーズン(97-98年)で引退するのではないか」との噂がささやかれた。

小池氏は「その通りになるかもしれない。彼のすべてのプレーを見届けたい」と、シカゴに居を構えることを決めた。

「97-98年シーズンの前、ヘッドコーチのフィル・ジャクソンが今季限りというのをほのめかしていました。彼を崇拝するジョーダンも、そのシーズンで一緒に引退する可能性は高かった。『ジョーダンのラストイヤー、そして最後の試合を絶対に撮る』と勝手に決めていました」と小池氏は振り返る。

フィル・ジャクソン氏(写真:ロイター/アフロ)

当時、息子は8歳。妻に事情を説明し、2人を日本に残し、「単身赴任」という形でシカゴで家探しを始めた。

幸運にも、知り合いのシカゴ在住の日本人ライターがちょうど家を貸し出す予定で、そのまま借りることができた。

「先手必勝」でブルズに挨拶

小池氏の次なる行動は、ブルズへの挨拶だった。小池氏がNBAを撮り始めた93年ごろは比較的容易だったプレスパスの取得も、年々厳しくなっていた。

97-98年シーズンはブルズの前人未到の2度目の3連覇がかかっており、ジョーダンが「今季で引退」と宣言したりすれば、間違いなく取材が殺到する……。小池氏は「先手必勝」とばかりに、97年10月のキャンプ初日に行われるブルズのメディアデー(選手やチーム関係者が一堂に会し、マスコミ対応する日)に足を運んだ。

メディアデーで取材に応じるジョーダン(1997年10月)

アメリカの取材陣は大勢いたが、日本人は少なかった。小池氏は顔見知りだったブルズ広報のティム・ハーラム氏に、「先日、日本からシカゴに移り住んだ。1年間、よろしくお願いします」と挨拶した。

小池氏の今季にかける意気込みを感じとったのか、ティムはこう述べた。
「海外メディアの撮影パスは、すべてNBAが管轄している。ブルズ全試合の撮影の許可は、出ないかもしれない。でも、ブルズのホームゲームで許可が出なかったときは、私に直接連絡をくれればパスを出してあげるよ。試合開始時は上からの撮影になるけど、後半になれば必ず1階の撮影席が空く。そのときは、声をかけるよ」

今でこそ、八村塁がNBAで活躍しているが、23年前はNBAでプレーする日本人は皆無だった。ブルズから見れば、バスケの後進国である日本のカメラマンに、便宜をはかる必要はなかったかもしれない。

ではなぜ、親切にしたのか。考えられる理由としては、それまでの数年間、小池氏が熱心にNBAの撮影をしていたこと、そして、彼の写真のクオリティーが世界レベルだったことが挙げられる。

「当時、ティムのその話を聞いて、喜んだのとホッとしたのと両方でした」

試合会場での様々な仕掛け

シーズン開幕後、小池氏はジョーダンを撮りまくった。レギュラーシーズンはブルズのホーム41試合のうち39試合、アウェイも41試合の約半分を撮影した。さらにプレーオフは21試合全てを撮影した。

シーズン開幕後に取材申請した日本の大手メディアは、月に2、3回しかパスが発行されず、仕方なく高額チケットを購入して客席から撮影していたという。

試合会場では様々なジョーダンの姿を撮るため、工夫もした。その一つが、固定カメラをゴールのボード裏に取り付けることだった。カメラをその位置に設置し、リモコンシャッターを切ることで、NBAの花形とも言えるダンクシーンをダイナミックに撮ることができる。

小池氏はスポーツ誌「スポーツイラストレイテッド」を見て、ジョーダンのダンクの撮影に憧れていたが、カメラの設置を許されていたのはNBAの公式カメラマンやブルズの公式カメラマン、同誌などに限られていた。

小池氏がブルズの公式カメラマンであるビル・スミスに、粘り強くリクエストを出していたら、とうとう許可が出た。以来、試合の3時間前に会場に入り、多い日は5台の小型カメラをあちこちに設置するのが、ルーティーンとなった。

次に狙ったのは、ストロボライトの使用権だ。前出の公式カメラマンらは、アリーナ備え付けのストロボを使用することができる。これにより彼らの写真は、粒子が細かく、なめらかな仕上がりを実現していた。

小池氏はブルズ側と交渉し、「使用権を持っている人が使わないときだけ」という条件で許可を得た。1試合の使用料金はキャッシュで600ドルと高額だったが、大事な試合では惜しみなく払った。

1998年2月のNBAオールスター。故コービー・ブライアントは初選出

小池氏が撮影したジョーダンの写真が掲載された雑誌を見てみると、どれも美しい。汗が浮き上がるように光る横顔。意図的にブレさせた、うつむきながら歩く姿。画像の美しさ、構図の美しさ、表情や動きの美しさ――。様々な「美しさ」が、どのカットからもあふれていた。

98年1月と5月に発行されたナンバー。表紙写真は小池氏が撮影(撮影:編集部)

ナンバー編集部の藤森三奈氏は、「小池さんは、とくに顔の表情にこだわって撮られるかたでした。ただ、からだ全体の写真も躍動感があり、1つ1つの動きが伝わってくる。どちらも素晴らしかった」と話す。NBA専門誌「フープ」(日本文化出版)の編集長だった齋木雅之氏も「小池さんはNBAの公式写真に対抗できる、数少ない日本人カメラマンだった」と評した。

神様の引退、小池氏は日本へ

97-98年シーズンのプレーオフファイナルは、第6戦の残り5.2秒でジョーダンが決勝シュートを決め、ブルズに6度目の優勝と2回目のスリーピート(3連覇)をもたらした。そして大方の予想通り、シーズン終了後に引退を発表した。

優勝して控室に戻るジョーダン(98年6月14日)

2001年にはワシントン・ウィザーズの一員として2度目の現役復帰を果たしたが、優勝をすることはできずに03年に完全引退。これを機に小池氏もNBAとの距離を少し置き、メジャーリーグやゴルフ、フィギュアスケートなどを追いかけた。現在は日本で高校野球を中心にいろいろな撮影をしている。

2000年に撮影したタイガー・ウッズ(全米プロゴルフ選手権優勝)

2007年に撮影したキム・ヨナ(世界フィギュアスケート選手権)

神様の密着撮影をした、唯一の日本人の小池氏。チャレンジに踏み切れた理由を、簡潔に「勢いとタイミング」と説明した。

「ああだこうだ考えたら、多分できなかったでしょう。年取った今も無理ですね。シカゴ行きを決めたときは36歳。自分がやりたいことを実現するには、どうしたらいいのか。毎日、そんなことばかり考えていました」

採算や効率は端から頭になかった。自らがイメージする最高にかっこいいジョーダンを読者に届けたい、自分だけの一枚を撮りたい、その一心だった。

小池義弘(こいけ・よしひろ)氏。1961年、静岡市生まれ。東海大学第一高校卒業後、京都の社会人野球で4年間プレー。その後、実家のレストランで4年間働く。1988年に「スズカの夏 鈴鹿8時間耐久オートバイレース写真展」を東京、大阪、名古屋で開催し、フリーカメラマンに転向。2輪から4輪、1992年よりアメリカ4大スポーツの撮影を始める。マイケル・ジョーダンに魅せられ、ラストダンス(1997〜98年)をシカゴに住み追い続けた。その後、フィギュアスケート、ゴルフなども撮影。イチロー選手の引退を期に、現在は日本国内で高校野球、プロ野球などを中心に撮影している(撮影:倉増崇史)


青木美帆(あおき・みほ)
1984年生まれ。フリーライター。早稲田大学在学中よりバスケットボールの取材を開始し、『中学・高校バスケットボール』(白夜書房)編集部を経て独立。バスケットの周辺で生きる人々の息遣いを、文字として描くことをライフワークとしている。今年2月に部活ノンフィクション集「青春サプリ。」(共著、ポプラ社)を上梓。近年は起業家や著名人のインタビューも。Twitter

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