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殿村誠士

「新人は3年で半分以下に」――「イケ渋すぎる」元マトリ部長のシビアな現場

2020/02/08(土) 09:22 配信

オリジナル

「自分は生涯、いち捜査官でした」――“Mr.マトリ”こと瀬戸晴海さんは、厚生労働省麻薬取締部部長を2年前に退官。彼の約40年のマトリ人生は、変容し続ける麻薬犯罪との闘いの記録そのものだ。今、麻薬犯罪は多様を極め、温床もSNSに移行。事態は深刻化する一方だ。退官後も麻薬撲滅のため精力的に活動する、瀬戸さんの原動力とは。(取材・文:山野井春絵/撮影:殿村誠士・Yahoo!ニュース 特集編集部)

実際の仕事は地味、それがマトリの世界

“マトリ”“麻薬Gメン”などと称される麻薬取締官。彼らが所属する「麻薬取締部」は、厚生労働省管轄下の組織である。

マトリは、全国で300人という少数精鋭部隊。そのうち幹部職員、総務・行政関連などの事務方と、鑑定部署の人員が合わせて約100人。捜査官が約200人。事件によっては、必要に応じて事務方からも人員を投入し、警察と協力し合いながら、捜査・取り締まりを行っている。薬物犯罪捜査、正規麻薬(医療目的で使用される麻薬)の監督、薬物乱用防止の啓発活動、さらに再乱用防止の推進など、捜査以外の仕事も多い。

「新人は1年でずいぶん辞める。3年で半分以下になるんじゃないかな。彼らの気持ちはわかるんですよ、『思い描いていた仕事と違う』って。派手な世界を想像して入ってきても、実際の仕事は地味ですから。休みも不規則です。もちろん、そこは厚労省ですから、ワーク・ライフ・バランスを考えた計画に基づいて、代休もきちんと取ってもらうんですが」

こう語るのは、マトリの部長を2年前に退官した瀬戸晴海さんだ。公安職ではなく、行政職であるマトリ。制度的に手当が付くことから、一般公務員と比較しても給与は悪くないという。

「ただ、業務量から見たら……どうでしょう。給与に合わない、という見方もあるんじゃないですかね。ベテランになってからも、マトリを去る人はいます。特殊な勤務体制で、単身赴任の期間も長く、なかなか一つの土地に根を下ろすことが難しいんです。生活の価値観は、人それぞれですからね。だからマトリに残り続ける人間のモチベーションは、使命感しかないんです」

経験を重ねる中で、悲惨な現場に出合うこともある。

「例えば自分の妻をいきなり人質にするとか、子どもが注射器で遊んでるとか。親父が覚醒剤の準備をしだしたら、子どもがチューブを持っていくとか、そういうリアルなシーンを目撃すると、胸にズシリとくるんです」

一般市民を汚染する薬物犯罪の実情。目を疑いたくなる現場に接するたびに、「使命感」は大きくなった。

20代の頃は、1年365日のうち、360日は仕事をしていたと笑う瀬戸さん。背中を追い、憧れた先輩は、60歳で亡くなった。昭和のスポ根激務をくぐり抜けたマトリの先輩たちの中には、早死にする人もいた。

「今は職員の安全と、健康管理が第一。医療制度も充実していますし、ワーク・ライフ・バランスもきちんとね。昔とは違いますよ。ただ、非常にスマートで優秀な捜査官は育ってきましたけど、いわゆる破滅型の捜査官っていうのはだんだん少なくなってきました。私は、そうですね、振り返れば、破滅型だったかもしれませんね」

「野菜のPさんお願いします」

「捜査官としてアンダーカバーで生きてきた」と言いながら、ダンディーすぎてつい目立ってしまう瀬戸さんが、マスコミに露出し始めたのには明確な目的がある。それは、麻薬犯罪を根絶するため、「事実」をより多くの人に伝えることだ。

現在、若い世代に広まっている違法麻薬の販売ルートは、インターネット、そしてSNS。友人からの勧めで体験し、自らネットで購入するようになるパターンが一般的だという。

「2ちゃんねる、5ちゃんねるときて、今はSNS。ほとんどがTwitterですね。マトリや警察でも監視はしていますが、すべてには対応しきれていないのが実情。隠語はもちろん、『隠絵文字』まで駆使しますからね。例えば、自転車の絵文字、これ、なんだかわかりますか? 自転車って『チャリ』でしょう。チャリとは、コカインの隠語なんですね。ハリウッド俳優のチャーリー・シーンがコカインで逮捕されたことに由来しているといわれています」

「他にも驚いたのが、『今、私は神楽坂にいます。野菜のPさんお願いします』というツイート。『野菜』といったら大麻ですね。『Pさん』は、プッシャー、つまり密売人を指します。要するに、『誰か大麻を持っていませんか?』という隠語です。そうするとね、それにコメントが入ってくるんですよ。『手押しOK、10分以内』とか。『手押し』とは、手渡しのこと。かと思えば、『ブルーベリー有り』というコメントがついたりする。『ブルーベリー』は、大麻の品種の一つです」

欲しい時に麻薬を現地調達できる時代。柔軟な発想で隠語や隠絵文字を駆使する若者たちの販売投稿は、捜査官泣かせだと瀬戸さんは苦笑する。

「60過ぎのおっさんがね、日々Twitterを一生懸命見ながら、解読して。苦手ですよ、正直言ってね(笑)。現在はマトリもプログラミングに長けた若い捜査官を増やして、分析を進めています。でもね、次々と出てきて対応しきれないのが実情ですよ。ネット事案の怖さは、県境のなさにある。管轄がないから。昔ならIPアドレスから手繰り寄せることもできましたが、今はフリーメールもたくさんありますし、難しいです」

Twitterの販売投稿から麻薬の世界に入り込む若者たちは、慎重な密売人によって、さらに匿名性とセキュリティー効果が高いコミュニケーションツールへと誘導されていく。

「麻薬購入だけでなく、例えば、子どもが犯罪者とSNSで知り合い、会ったら向精神薬を飲まされて暴行されることもあります。この問題の現状、実像を、まずは親、教員、そして地域の人たちがきちんと知って、子どもたちに教え、注意喚起しなければ。全体で捉えていかないと、解決にはつながりません」

海外で出合った「大麻ワックス」

マトリの代表的なイメージといえば、港の倉庫で密輸グループと対峙するシーンではないだろうか。映画のようなドンパチはほとんどない、と言う瀬戸さんも、フィクションを凌駕する密輸事件にたびたび遭遇してきた。マトリは密輸を捜査し、警察・税関・海上保安庁と協力して、海外からの麻薬の流入を水際で食い止める。瀬戸さんが部長時代に力を注いだのは、こうした国内での連携強化に加え、海外の機関とも信頼関係を築くことだった。

「日本の薬物問題というのは、海外から入って伝播します。つねに国際問題なんです。欧米各国、アジアを中心に、世界中、どこへでも行きますよ。捜査方法、資料の扱い方まで、国によって千差万別です。国民の薬物に対する意識の違いを知ることも、勉強になります。大切なのは、胸襟を開き、海外の捜査官とも人と人との付き合いをすること。言葉がブロークンでも、通じるところはあります。世界中どこへ行っても、捜査官は捜査官。不思議なものですけど、分かり合えるんですね」

瀬戸さんも、若い頃からたびたび派遣され、世界の麻薬捜査を見てきた。特に印象的だったのは、南米のコロンビア共和国だ。

「コロンビアの麻薬戦争は、壮絶ですよ。潜水艦で密輸したり、米軍も絡んできたり。トンネルを掘って密輸するルートをつくるとか、映画以上の世界。今や日本も対岸の火事ではありません。密輸グループの構成員も多国籍、犯罪の手法もワールドワイドですから、こちらも国際連携を固めて対峙しなければ」

時代によって、麻薬にも流行がある。新種の麻薬を調査することも、重要な任務の一つだ。

「近年出回る、大麻成分を濃縮した『大麻ワックス』には6、7年前、欧米での情報収集で出合いました。『これはいったいなんだ?』。さっそくデータを調査し、日本に戻って分析チームを結成、全国で実態調査をしました。『これは(国内にも)出回っている!』と判明し、撲滅に乗り出しました。同時に、多様な機関に対して、新しい麻薬が広まりつつある事実を発信します。情報発信も大切な仕事なんですよ」

「今年もええんか?」

趣味はない。娯楽で楽しみを求めるという意識が、そもそもない。仕事のストレスは、仕事で解消するのが常だった。仕事こそが自分の人生そのものだと、約40年間のマトリ生活を振り返って、瀬戸さんは言う。「辞めたい」と考えたことは一度もないし、一般的な幸せや「盆正月」すら、求めたことがなかった。

「特に正月は『品物』が動きます。取り締まりが緩むと判断されますからね。その間に徹底して情報収集しなければ、年明けの初荷が揚げられない。大阪勤務時代の大みそかは、憧れの先輩と、いつも車2台で分かれて張り込みをしていました。やがて、除夜の鐘が鳴りだすんですよ。すると、決まって先輩から無線が入りました。『今年もええんか?』つまり、今年も家に帰らなくていいのか、って聞いてくるんですよね。『いいですよ』って答えて、そのまま仕事が続いた。そんな時代でした」

執筆活動をしながら、請われれば講義や講演に出向き、捜査機関で専科研究する日々。昨年は、マトリ部長出身者6人で「日本薬物問題研究所」を立ち上げた。

「国内外の薬物事象や諸問題を広く情報収集、分析をして、なかなか世に知られていない実情を、わかりやすく発信するのが主な目的です。後進の育成なども、徐々に拡大していきたい。時間をかけてやっていこうと思っています」

伝えなければならないことが、まだまだたくさんある。覚醒剤、大麻、危険ドラッグ以外にも、今は睡眠薬や風邪薬など、市販薬のドラッグ的な使われ方が蔓延しつつある。

「薬物乱用者すべてが、暴力や殺人など、二次的な犯罪を起こすわけではありません。依存から慢性中毒になって、幻覚・妄想と、段階がある。猟奇的な罪を犯す人間は、ごく一部。多くの乱用者は、初期の段階が多い。そして、服役後も依存に苦しむ。きちんと社会復帰させるには、こうした事実を知って、偏見と差別を持ってはならない。芸能人逮捕のニュースも、周辺のゴシップなどはどうでもいいんですよ」

瀬戸晴海(せと・はるうみ)
1956年、福岡県生まれ。明治薬科大学卒業。1980年に厚生省麻薬取締官事務所(当時)入所。九州部長などを歴任し、2014年に関東信越厚生局麻薬取締部部長に就任。2018年に退官。著書に『マトリ 厚労省麻薬取締官』(新潮新書)。