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元船員らの被ばくを追う――新事実次々 60年前のビキニ核実験

2017/02/06(月) 11:39 配信

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60年余りの時を超え、被ばくの実態が明らかになりつつある。1946〜58年に太平洋・ビキニ環礁などで米国が実施した「ビキニ核実験」。直後に死者の出たマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員以外に船員の被ばくはない―。そう言われてきたのに、他船の元船員の歯や血液に被ばくの痕跡があることを最近、科学者たちが突き止めたのだ。さらに、外交の研究者は日米の公文書から新事実を明るみに出している。半世紀以上も前の出来事に焦点を当て、事実を掘り起こす人たち。彼らはなぜ、「ビキニ」にこだわるのか。(Yahoo!ニュース編集部)

62年後の健康相談会

高知市立中央公民館は、文化施設「かるぽーと」の高層階にある。蒸し暑かった2016年7月17日。その11階の大講義室で「ビキニ水爆実験の健康相談会」が開かれ、放射線被ばくを専門とする3人の科学者がやってきた。

1950年前後、高知県は遠洋マグロ漁業の一大基地だった。今も元船員や家族らが多く住む。「実は自分も被ばくしたのでは」「子や孫に影響は?」といった不安は今でも根強く、それならまず健康相談を、と高知県が企画した催しだ。

ビキニ水爆実験の健康相談会に招かれた3人の科学者。左端が田中公夫氏

約60人の元船員や家族らの前で、ワイシャツ姿の男性がマイクを握った。公益財団法人・環境科学技術研究所(青森県六ヶ所村)の元生物影響研究部長で、今は相談役の田中公夫博士(65)。田中氏が「染色体」に言及したのは、その席だ。

染色体に「痕跡」

「(ビキニ核実験による)被災者の染色体です。私たちはこれを使って被ばく線量を調べることにしました」。スクリーンに染色体が映し出された。ぶつ切りにされたひも状の形。田中氏によると、放射線によって切断された染色体は別の染色体と結び付き、異常を引き起こすことがある。染色体異常の一部は体内に残り続けるため、異常の割合からかつての被ばく線量を推計できるという。

スクリーンに映し出された元船員の染色体。「放射線で傷付いている」と田中氏

田中氏は2013年から高知や宮城、神奈川の各県に住む元船員を訪ね、血液を集めた。血液中の細胞から染色体を取り出すためだ。対象は19人。全員、1954年の3〜5月に米国が実施した計6回の核実験「キャッスル作戦」の際、船乗りとして周辺海域にいたことが、船員手帳の記録などで分かっている。一番若かった10代の男性も76歳、最年長者は既に90歳。自分に影響はないか、異常が孫に遺伝していないか。元船員たちはそれを何より懸念していた。

会場で田中氏ら科学者に質問する元船員

田中氏は続けた。

「宮城県のあるお家に行くと、4世代が集まっていました。(採血に応じるかどうか)昨日の夜まで悩んでいた、と。おじいちゃんに何か異常があったら孫たちはどうなるんだ、と」

295ミリシーベルト 「本当はもっと高いかも」

分析の結果はどうだったか。

「血液に残された染色体異常を元に当時の被ばく線量を推計すると、19人の平均は91ミリシーベルトでした。最大値は295ミリシーベルト。この方は実験場から420キロ離れた海にいました」。国際放射線防護委員会(ICRP)や厚生労働省によると、100ミリシーベルトを超えると、がんの発生率が高まるとされている。「(本当は)もっと数値の高い方がいたかもしれません。これはあくまで現在も生存していて、私たちが自宅まで伺うことができた人の数値です」

東京都立第五福竜丸展示館にある海図。赤い点は放射能に汚染されたマグロの漁獲位置。核実験の周辺海域では多数の日本漁船が操業中で、遠く離れた場所でも汚染マグロが獲れた

米国がマーシャル諸島のビキニ環礁などで核実験を繰り返したのは、1946〜58年だ。62年まではクリスマス島などでも実施した。実に計100回超。英仏も同じころ、太平洋でそれぞれ数十回。ソ連も大陸で同様の実験を続けた。

死者、そして「放射能マグロ」

そうした最中の1954年3月1日、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が米国の核実験で被ばくした。ビキニ環礁で炸裂した水爆「ブラボー」が原因だった。破壊力は、広島型原爆の約1千倍。爆発で巻き上げられたサンゴの粉塵は、160キロ東で操業していた第五福竜丸にも届く。船の無線長、久保山愛吉さんは半年後に死亡。広島・長崎への原爆投下の記憶も新しい当時の日本に、大きな衝撃を与えた。また、この年の12月までに延べ992隻が放射能で汚染されたマグロを水揚げし、「ビキニ」「放射能マグロ」の言葉は全国に広まった。

築地魚市場で実施されたマグロの放射能検査。第五福竜丸の被ばく後、各地の港で検査が行われた(1954年3月19日=写真:読売新聞/アフロ)

ところが、その年末、日本政府は漁港での検査を突然打ち切り、「ビキニ」に幕を引く。そのため、第五福竜丸以外の船やその後の実験による日本船の被害は全容が分からないままになった。

「ビキニ」にこだわる理由を田中氏はこう語る。

「もっと早く調査していたら、と。もう20年くらい早く。(実際は)もっと(被ばくした)人が多かった。第五福竜丸をずっと調べていた国の放射線医学総合研究所(放医研)は何をやっていたのか。当然、『ほかの船はどうだったのか』と考えるでしょ? でもそうしなかった」

「遺伝への影響はない」

田中氏らの研究は、「第五福竜丸以外」の被ばくを初めて医学的に証明する内容だった。だから余計に元船員らは不安が募る。それを打ち消すように、田中氏は語りかけた。

ビキニ環礁で実施された核実験(1956年7月=写真:Science Photo Library/アフロ)

「(広島原爆による)放射線の遺伝への影響は見つかっていません」。染色体の異常は誰にでも多少はある。加齢と共に増えもする。広島・長崎の被爆者に対する調査でも遺伝は確認されていないし、染色体の異常ですぐに病気を発症するわけではない、と。

関係船員1万人?「もっと調査を」

会場には、放射線生物学が専門の星正治・広島大学名誉教授(69)もいた。星氏らが着目したのは「歯」だ。被ばくすると、放射線による傷が表面のエナメル質に残るため、そこから過去の被ばく線量を推計できる。

ある元船員の歯を分析すると、被ばく線量は推計319ミリシーベルト。広島原爆に置き換えると、爆心地から1.6キロの地点で被爆した線量に相当するという。

放射能汚染について語る星正浩氏

「ビキニ被ばくの全容解明は難しい」。ソ連の核実験場セミパラチンスク(現カザフスタン)で調査を続けた星氏も、そう痛感している。なにせ、60年以上も前の出来事だ。

「被害に遭った船はもう存在しないでしょう? どのくらい被ばくがあったか、船員自らの身体で証明するしかないんですよ。もっと調べなくちゃいけない。関係した船員は1万人くらいいた。まだまだ調査が必要です」

被ばくした漁船などの放射能検査に使われた「ガイガー計数管」。都立第五福竜丸展示館が保存している

もう一つ、星氏を突き動かすものがある。東京電力福島第一原発の事故だ。福島県の検査では、2011年3月の事故当時18歳以下だった人のうち、2016年末までに145人の甲状腺がんが確定したが、県の検討委員会は「放射線の影響とは考えにくい」との姿勢を変えていない。

「甲状腺がんが見つかっても『関係ない』と言う。関係ないと言い切りたいなら、調べ続ければいい。ビキニの問題と同じ。病気が放射線の影響かどうかをはっきりさせることは、将来につながるんですよ」

太平洋で相次いだ核実験の結果、環礁に大きなクレーター痕が残った(写真中央の海がえぐった部分)。周辺には多くの島民が住んでいた。人々の記憶は薄れても地球上の痕跡は消えない(1985年12月=写真:読売新聞/アフロ)

米側の機密文書「入手」

なぜ、ビキニ被災の全容は未解明のままなのか。

「日米の政治決着が背景にある」との指摘を続ける研究者がいる。明治学院大学国際平和研究所の高橋博子研究員(47)。「日米交渉の裏側を解明する機密文書が見つかった」と聞いて名古屋市の自宅を訪ねると、高橋氏はA4判のペーパー5枚を差し出した。

「これです。1990年代にいったん開示された関連文書からも抜き取られていました。米側の機密文書です」

当時の駐日米大使が送った電報。開示請求で機密が解除され、「SECRET」に線が引かれたという

高橋氏によると、この文書は「安全保障上の機密情報」を理由に機密扱いが解除されなかった。2014年、米国在住の調査員を通じて開示請求を行い、ようやく入手できたという。いったい、何が記されていたのか。

戦犯釈放と交換で幕引き?

文書の作成は1954年12月27日。駐日米国大使のジョン・M・アリソン氏が本国に送った外交電報で、重光葵外相との会談内容が記録されている。半月ほど前に4度目の外相になったばかりの重光氏は、その日、アリソン氏を訪ね、「日米間で素早い解決を要する事項」として6点を挙げたメモを渡したという。「非公式のメモだ」と念を押して。

米国の機密文書を開示させ、分析した高橋博子氏

文書によると、6項目の最初が「ビキニ補償問題の解決」で、最後が「大規模な戦犯の解放と仮出所」だった。特に戦犯釈放については「日本人に好意的な態度をとらせることにつながる」などと述べたという。同じ席で「放射能マグロ」の補償金に関する交渉も行われた。

会談の日は「第五福竜丸」の被ばくから約10カ月後だった。世は冷戦時代。米国は、拡大する反核運動が「反米」になることを警戒。各地で水揚げされた放射能マグロへの補償金を一括で支払い、ビキニの早い解決を望んでいたという。

漁民の被害を「抹消」

機密文書を分析した高橋氏は「ビキニの早期解決と戦犯釈放がセットになったのではないか」と疑っている。

「直接の交換条件とは言い切れないけれど、外交交渉では常に複数の項目をテーブルに載せます。何かを差し出す代わりに、別の案件で良い条件を引き出す。日本政府は、ビキニ問題の早期決着に応じることが(当時はまだ巣鴨プリズンに収容されていた)戦犯への追及を解除させ、釈放させることに有効だと考えたのではないでしょうか」

重光葵氏の日記にもこの会談の記録があり、「発足は良好」と記されている

実際、会談の翌日には、日本政府がマグロ検査の年内打ち切りを決め、1週間後にはビキニ被ばくに関する「完全解決」の合意文書が交わされた。米国が「見舞金」として200万ドルを支払う一方、日本は賠償請求の権利を放棄する、という内容だ。それ以降、第五福竜丸以外の調査は行われず、巣鴨プリズンにいた戦犯は1958年までに全員が釈放された。

高橋氏は「政治の話し合いで、漁民個人の被害は抹消されました。実際は多数の船が被害に遭ったのに、『ビキニ』は第五福竜丸だけに矮小化されたんです」と語っている。

元高校教員もこだわる

「ビキニ」の調査では、関係者の誰もが山下正寿さん(72)の名を挙げる。高知県の元高校教員。30年ほど前、1985年に元船員への聞き取りを始めてからこだわりを絶やしたことがない。

山下正寿さんは元高校教員。退職後も「ビキニ」にこだわり続ける

教え子の高校生たちと作った地域の歴史や文化を調べる勉強会。それが始まりだった。

その年、山下さんらは高知県内で「長崎で被爆した」と言う女性に出会う。「その話を聞いて驚きました」と山下さん。彼女の息子は長崎の原爆に加え、ビキニの核実験でも被ばくした、というのだ。船員だった息子はビキニの後、病に苦しみ、入院していた神奈川県の病院を抜け出して入水自殺した、とも聞かされた。27歳の若さだったという。

元船員や家族を訪ね歩く山下さん。時間を惜しむように調査を続ける

多くの日本人と同様、山下さんも「被ばくは第五福竜丸だけ」と思っていた。ところが、その後も高校生たちと漁村を歩き、「火の玉を見た」「白い灰が降った」などと話す元船員と次々に出会う。全員がビキニ環礁の周辺海域で操業中だった。

さらに驚いたのは、多くの元船員が白血病やがんなどにかかっていたことだ。ある船員は家族のため、がんを押して船に乗り続けていた。自宅の2階から大量の血を吐いて倒れた人もいたという。

日本政府「解決済み」

山下さんらの調査をきっかけに、1986年には実験当時の被災状況について衆院予算委員会で質問が出たが、厚生省(現厚生労働省)は「資料が見つからない」「調査が難しい」などと答えた。徹底して隠された、と山下さんは振り返る。

高知県土佐清水市で調査する山下さん。当時の航海日誌を保管している元船員もいた

「あれだけ大きな事件なのに、解決済みで窓口がない、資料もありません、と。(当時の調査は)因果関係の証明に手が届かんかった」

60年後に提訴の理由

高校退職後も山下さんは調査をやめなかった。2005年には、元船員の支援も行う団体「太平洋核被災支援センター」を作り、事務局長に就く。

事態が大きく動いたのは2014年になってからだ。山下さんらの情報開示請求に対し、厚労省がついに関連文書を公開したのである。1980年代当時は「見つからない」としていた資料で、約1900ページ。「全省的に調べた結果、見つかった」と説明したという。

厚生労働省の開示資料を手に説明する山下さん。「開示」とはいえ、黒塗りも目立った

その中には延べ556隻分の放射能検査や船員の血液や尿検査の記録があった。核実験の人的被害を裏付ける公文書だ。決定的な資料を得て、元船員や遺族ら45人は2016年5月、「情報が隠され、補償を求める機会を逸した」などとして国を相手取り、高知地裁に提訴した。

山下さんは提訴について、こう話す。

「ある元船員は『国相手だから無理だろう』と言っていました。それでも立ち上がった。被ばくを表立って証言するのは大変なんです。子どもたちが不安になるだけ。補償もないからです」

提訴のため、高知地裁に向かう元船員ら

「亡くなった海の仲間のため」

元船員の増本和馬さん(80)は毎回、原告席に座る。ネクタイを締め、ジャケットを羽織り、法廷でのやりとりを書き留める。

原告団の会議に臨む元船員。右が増本和馬さん

増本さんは中学校を出て、マグロ漁船に乗った。漁を終えて築地に入ると、ガイガーカウンターを持った係官に魚を検査された記憶はあるが、あの光景と自分たちの健康を結び付けて考えたのは最近だ。「思えば…」ということはある。同じ船の仲間たちは若くして死んだ。自身も20年ほど前から「白血球が異常に多い」と診断された。医師は「原因不明」。前立腺がんを患ったこともある。

なぜ、60年も前の事件を世に問うのか。増本さんは2016年12月、第3回口頭弁論の直前、こう話した。

船乗りだった男性の墓に手を合わせる女性。訴訟には大勢の人の思いが詰まっている

「地元で話を聞くと、『船員だった私の兄弟はすごい吐血をした』とか、『(ガイガーカウンターの)針が振り切れたと夫が言っていた』と話す家族もいた。原因も分からずに死んでいった仲間が多くいます。被災者の人権は無視され続けた。私は亡くなった同僚たちの思いを代表して、裁判に臨んでいるのです」

そして裁判は続く

原告の1人で土佐清水市に住む元船員の松下長次さん(82)は1954年当時、神奈川県の漁船に乗っていた。操業中、遠くの空がぶわーっと明るくなったことを覚えている。乗組員は帰港後、最大3回にわたって神奈川県の久里浜の病院で頭髪や爪などを検査され、松下さんも「白血球の数に異常がある」と医師に言われた記憶がある。

松下さんは言う。

元船員の松下長次さん。多くの仲間が被災した

「マグロを捨てさせられて、病院で髪と血を取られて。最初は第五福竜丸みたいに補償される思うたけど、されんかった。僕は(神奈川県の)三崎の船やけん、三崎にも仲間がたくさんおる。調べれば、(被ばくした)船員はもっと見つかるはず」

ビキニ被災から既に半世紀以上。被告の国は「賠償請求期限の20年が過ぎている」などとして訴えの時効などを主張している。これに対し、原告側は「2014年まで情報が開示されず、不法行為を知ることができなかった」と反論。裁判は続いている。

元船員が保存していたモノクロ写真。1950年前後、たくさんの若者が漁船で太平洋を目指した

[写真]Yahoo!ニュース編集部、読売新聞/アフロ、Science Photo Library/アフロ

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