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野村佐紀子

「復興」の旗が忘れ去られていないか――震災から9年、渡辺謙と気仙沼

2020/02/25(火) 09:00 配信

オリジナル

俳優の渡辺謙(60)は、2013年から宮城県気仙沼市でカフェを経営している。日本にいる時は毎月訪れ、海外滞在中もファクスで直筆メッセージを届ける。東日本大震災直後から、応援の声を集めるウェブサイトを立ち上げ、避難所を回るなど、さまざまな形で復興支援に携わってきた。震災から9年、どんな思いで被災地と関わってきたのか。現在地をどう見ているのか。気仙沼でカフェを切り盛りする渡辺を訪ねた。(取材・文:Yahoo!ニュース 特集編集部/撮影:野村佐紀子)

(文中敬称略)

「人の集まれる場所がなくなった」

「さあ、完璧に近い試作を作ってみよう」

朝7時半、Tシャツにエプロン姿の渡辺謙がスタッフに声を掛ける。芝居小屋のような建物に、温もりの感じられる朱色の壁。海を望む大きな窓から朝の日差しが注ぐ。

宮城県気仙沼市にある「K-port」は、渡辺がオーナーを務めるカフェだ。2013年11月のオープン以来、渡辺は毎日、来客数や売り上げデータを確認し、国内外のあちこちからファクスで直筆メッセージを送り続けてきた。

渡辺が日々K-portに届けるメッセージ。近況や天気、時事についてなど、内容はさまざまだ

メニューは基本的に渡辺が考えている。年に数回は自ら店に立ち、朝食会を催す。この日、2020年1回目の朝食会が開かれた。今回の目玉メニューはエッグベネディクト。続々と集まる客に渡辺が挨拶する。

「新春ですから、和よりも洋のほうがかえって面白いかなと思いまして、新しいメニューに挑戦しました。エッグベネディクト、大好きで、ロンドンでもニューヨークでもいただいておりました。スタッフががんばって練習いたしまして、作らせていただきました」

2020年1回目の朝食会。メニューはエッグベネディクト、マッシュルームのクリームスープ、信州アスパラガスと紅芯ダイコンのサラダ、気仙沼のイチゴを添えた自家製ヨーグルト。ベーコンやアスパラガスなどの食材も渡辺がセレクトした

2011年の東日本大震災直後から、さまざまな形で復興支援に携わってきた。震災から4日後の3月15日には、友人の放送作家・小山薫堂とともに「kizuna311」と題した復興支援サイトを立ち上げる。佐藤浩市、笑福亭鶴瓶、役所広司、吉永小百合、クリント・イーストウッドなど多くの著名人が、「kizuna311」を通じて詩の朗読や歌、メッセージを届けた。

震災から1カ月半が経過した頃には、22カ所の避難所を回る。その後もドキュメンタリー番組で被災地を訪れるなかで、気仙沼に親しい友人が増えていった。渡辺はこう言う。

「仲間といったら変ですけど、お友達のような感覚でしゃべれるようになって。それで、今何が一番欠乏しているのかと聞いたら、『人の集まれる場所がなくなった』って言われたんですよ」

きっかけは一枚のスケッチ

K-portのきっかけを作ったのは、気仙沼でできた友人の一人、安藤竜司だ。

安藤竜司。K-portに隣接する鮮魚店「磯屋水産」で

安藤は気仙沼に生まれ育ち、水産業を営んできた。現在、K-portの隣に鮮魚店「磯屋水産」を構える。安藤は震災後に、K-portと磯屋水産が並ぶ土地一帯を購入した。

「この辺は元々土地の値段が高いエリアで、手が届かなかったんですよ。津波で建物が流された後、『瓦礫(がれき)が残ったままでいいから』と言って手頃な値段で買いました。ここで魚屋とカフェをやりたいと思って、スケッチを描いて。謙さんにそのスケッチを見せたんです。そしたら、『このカフェ……僕がやってもいいかな』って。もう大興奮ですよ。ビックリなんてもんじゃない。光が差して、『ハーレールーヤー』みたいな(笑)」

安藤が描いたスケッチ。磯屋水産の隣にジムと自転車販売店、さらにその隣にカフェが描かれている

渡辺に思い立った理由を尋ねると、「直感なんだよね。だいたい、弾みと成り行きで生きているから」と笑う。いざ実現に向けて動き出し、設計は震災復興に関わっていた世界的に知られる建築家・伊東豊雄に依頼。伊東はすぐに快諾した。渡辺の「エンターテインメントを届ける場所にしたい」という思いのもと、芝居小屋をイメージした店舗ができあがる。

K-portの外観。外壁には三陸地方の焼き杉を使用している

町が前に進んでいくための力

新作メニューを考える時は、まず渡辺自身で作ってみるという。

「地元のお菓子屋さんとコラボしてシュークリームを作ってみたり、僕の出身の新潟からお餅を取り寄せて、こっちの小豆屋さんとぜんざいを作ったり。いろいろ面白がってやっていますね」

「コーヒーと紅茶、どちらになさいますか」と一人ひとりに尋ねて回り、朝食を運ぶ

支援のためというより、店の運営を楽しんでいる。

「みんなが面白がったり楽しんだりする時間と場所をどう提供できるか。『復興支援』という重たい字が付いてしまうと、なかなか身動きが取れないんですよ。もっと自然で、『僕に何ができる?』というところから始めてるので。僕ができる楽しみ方を、みんなと一緒にやるということが主眼です」

「カフェをつくろうとしたら、たくさんの方々の協力を得られたんです。上物は自分が建てたんですけど、家具や食器、食洗機などを揃えるにあたっても、いろいろな方のご支援をいただいた。『こうやってunite(団結)していくんだ』と気が付きました。支援が少しずつ積み重なって、いろんな人の思いが詰まっているカフェになった。それこそが、みんながこの町を好きなことの証明だと思うんですよ。それが『復興』という字に値するかは分かりませんけど、この町が前に進んでいくための大きな力になってるんじゃないかな」

とはいえ、楽しむだけでは継続できない。飲食店を経営するのは初めてだ。

「始める前にいろんな方に相談しました。ここでたくさん売り上げて自分のビジネスにしようという気はないんです。でも大赤字だと続かないから、そこそこ帳尻が合わないと。長いスパンで考えなければ一過性のもので終わってしまうので、覚悟が必要だと思いました。しばらく店を離れているうちに、ちょっと店に“ガタ”がきたりもするんですよ。そのたびに方向転換したりしています。例えば去年、年中無休で営業していたのをやめました。そのほうがスタッフのメンタルもフィジカルも保てて、気持ちよく働けることにようやく気が付いたんです」

K-portの店先で

満員御礼となったこの日の朝食会には、東京からも2組の客が来ていた。朝食会の定員は30人ほどで、告知から1時間もしないうちに予約はいっぱいになる。東京から訪れた30代の男性客は「500回くらい予約の電話をかけた」と話す。

前出の安藤はこう語る。

「外からも人が来てくれる場所が生まれて、本当にうれしいですよ。このまま風化して限界集落みたいになるのかなって、僕らも不安なわけです。震災がなくても、地方ってそうじゃないですか。東京や大都市に集中していくなかでどんどん過疎化していく。東京だって、地方からいろいろな物や人が集まっているわけで、地方がしぼめば、必然的に東京もしぼんじゃうわけですけど」

「復興」の旗が忘れ去られていないか

気仙沼で

震災から9年が経とうとする今、渡辺は言う。

「テレビで震災の特集をやっても視聴率が上がらないとなると、本数も減ってくる、時間も減ってくる。やっぱり需要と供給ですよね。興味を持ち続けられる社会であるかどうかが、僕は大きいと思うんです。関心度が高ければ、メディアも報道しようとなるでしょう。一方で、しがらみなくフラットな目線で意見交換できるメディアも、もっとあるべきだと思います。今はTwitterなどで誰でも何でも発信できるけど、無記名で出せるから、内容の精度や価値は著しく下がっているような気がしてならないんですよ」

関心を持ち続けられる社会であるために、できることは何だろうか。

「自分がどう社会と関わっているかということに対する認識度の問題だと思うんです。例えば僕は俳優という仕事をしてるけれど、社会に関わらなくてもいいやと思うと、現場と家だけ行き来してれば日々の生活が成立します。でも僕は社会人として、この国の一人として、選挙権もあれば、負わなきゃいけない義務もある。そういうものをちゃんと認識しているかどうかは、大事なことですよね」

俳優だからこそ取り組めることもある。渡辺は、3月公開の映画『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)で福島第一原子力発電所の所長・吉田昌郎を演じた。原発事故後、発電所内に残って対応した作業員たちを描いた作品だ。

「ファクトを伝えるドキュメンタリーより、フィクションにしたほうが絶対にいいと僕は思った。10人より100人、100人より1万人に伝えるためには、心を動かせる人間ドラマとして描かないといけない。関心が低下するなかで、いかに喚起できるか。事故の案件をただ見せるだけでは、『原発か、面倒くさい、もういいや』と思ってしまう人もいるかもしれない。闘った人間たちのドラマを見せることで、見る人たちの許容量が広がり、テーマが伝わる。そこにフィクションの強みがあり、僕らの仕事の意義もあります」

「2020年、オリンピックがあります。『復興五輪』という旗を掲げて招致をしたわけですよね。でもオリンピックって大きなイベントですから、どんどん『お祭り化』していって、『復興』の旗が忘れ去られる方向に向かっているんじゃないかという思いが、僕たち制作側の人間にはあった。ですから今年の3月11日の前に映画を公開し、『福島からオリンピックの聖火が始まるんです』『僕たちはこういう案件を抱えながら、今生きているんです』と伝えるべきだろうと」

地震が起きた時、渡辺はロサンゼルスから成田に向かう飛行機の中にいた。日本に戻ってからは、テレビで報道を見ながら地団太を踏んでいたという。「原発事故について、情報が錯綜しているのか、タイムラグがあるのか、本質的な話が伝わっていないのか、よく分からない状態で非常に不安でした。みんなある意味パニックになってましたよね。今回この映画に取り組むなかで、事実の詳細を知ることができました」©2020『Fukushima 50』製作委員会

過去を検証し、これからを考える

「おそらく答えのない映画です。『僕たちはこう考えています』と主張する作品でもありません」と渡辺は言う。振り返る一つのきっかけになることを望んでいる。

「『硫黄島からの手紙』(クリント・イーストウッド監督、2006年)という映画に取り組んだ時に、『戦争というものを日本人はきちんと検証できていない』と思ったんです。日本で戦争映画を作ると、『悲しい、つらい、戦争は悪だ』ということを伝えるためのものになってしまうことが多い。でもあの時、大多数の人間が『戦争をやれ』と思っていたわけですよね。そのことについて、もっと反省すべきだと思うんですよ」

「第2次大戦から猛スピードで復興するためには、忘れることも必要だったという見方もあるかもしれない。でも、この国には自分も含めて、『それはちょっとなかったことにして』というような、忘却しやすい国民性みたいなものがある気がするんです。例えば企業が不祥事を起こしたら、頭を下げた、辞任をした、『さあ、新体制で頑張りましょう』となる。『ちょっと待て』と。本質を検証しないまま、次に向かってしまうんです」

渡辺はこう続ける。

「東日本大震災から、原発事故から9年が経つ。その間、みんな立て直すことに必死だった。この映画が、過去を検証し、これからのあり方を考えるターニングポイントになってほしいと思っています」

気仙沼に通って9年、渡辺の目に町の現在はどう映っているのだろうか。

「町をどうしていくか、向かう方向を定めるのにかなり時間がかかったんですよ。防潮堤が建って、新しい商業施設ができ始めた。この3月、4月ぐらいで道路も整備されるでしょう。今、ようやく始まりかけている、スタート地点に立ったという感じがしていますね」

2020年1月、気仙沼。防潮堤ができ、沿岸部の整備が進む

渡辺謙(わたなべ・けん)
1959年生まれ。新潟県出身。ハリウッドデビュー作となった『ラスト サムライ』(2003)でアカデミー賞助演男優賞にノミネート。以来、ハリウッド映画に多数出演し、国内外で活躍。2015年、ミュージカル『王様と私』でトニー賞ミュージカル部門主演男優賞にノミネート。『Fukushima 50』は3月6日から全国公開。主演舞台『ピサロ』が3月13日から4月20日まで東京・PARCO劇場で上演予定。


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