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モリシタヨウスケ

もう大食いできないジャイアント白田――全盛期は年収3000万円、「巨大食料庫」だったころ

2019/10/16(水) 09:19 配信

オリジナル

2000年代前半、テレビ界は空前の大食いブームに沸いていた。そこに現れた数々のスターの中で、最も光り輝いていたのがジャイアント白田である。

195センチの巨体で、強敵たちを次々に倒していった彼は「史上最強の大食い王」と呼ばれた。

大食いは、12年前に引退した。「今は“小食”ですね。どれだけ現金を積まれても全盛期のように大食いはできません」。食い倒れの街・大阪は道頓堀で会った白田に、当時の面影はなかった。(取材・文:ラリー遠田/撮影:モリシタヨウスケ/Yahoo!ニュース 特集編集部)

今は串カツ屋のオーナーとして厨房に立つ

大阪・道頓堀、たこ焼き屋や焼きそばなど大阪グルメの専門店が軒を連ねる「中座くいだおれビル」の一角に白田の姿があった。「串カツしろたや」。

自分の名前を冠した串カツ屋で、多いときは週に3回ほど自ら厨房に立つ。白田の店だと知らずに入った客に気づかれて驚かれることもある。

「よくあるタレントの飲食店とは違いますよ。僕自身がゼロの状態からお店を作って、オーナーとして切り盛りしていますから」。白田は専門学校に通い、調理師免許を取得。大阪に出店し、10年以上が経った。今は立派な経営者なのだ。

「あの大食いブームの当時の僕がいまだに最強だと思ってます」と白田は豪語する。その言葉通り、全盛期はトレーニングでカレー8キロ、試合本番ともなれば約10キロのカレーをたいらげ、稼いだ金額は年間3000万円にのぼる。そんなレジェンドが大食いの世界に身を投じたきっかけは、ささいなことだった。

練習ゼロで挑んだ初めての大会で準優勝、大食いの道へ

大学生のとき、近所の回転ずし屋で「1時間以内に50皿食べたら賞金1万円」という企画をやっているのを見つけて挑戦してみた。

普段から回転ずしで40皿は食べていた彼にとって、この挑戦は赤子の手をひねるようなものだった。その後は大食い企画をやっている店を片っ端から渡り歩いて、賞金稼ぎをしていた。

そうしているうちにテレビ局から声がかかり、大食い番組に出演することになった。

特に何の対策もしない状態で臨んだ初めての大会では、破竹の勢いで予選を勝ち上がるも、度重なる勝負で未知の領域に足を踏み入れたことで、決勝に上がる頃には胃袋が限界を迎えていた。

「最悪のコンディションだったので、決勝では勝てる気がしませんでした。でも、いざ試合が始まると胃が変になったのか、食べても食べても胃の感覚が変わらなかったんです。それで『いけるかもしれない』と思ってがんばったんですが、結局ラーメンどんぶり半分ぐらいの差で負けてしまいました。そのときに思ったんです。『これ、最初から真剣に対策していたら勝てたんじゃないかな』って」

練習ゼロで挑んだ初めての大会で準優勝という結果を残したことで、白田は自分の才能に気づいた。

そこから独自のトレーニングの日々が始まった。1日1食は食べ放題の店で限界まで食べ続けることで胃の容量を少しずつ広げていった。

自らの肉体を「大食いのためだけの巨大食料庫」と化す

「胃の容量が広がるのは自分でも分かりますよ。最初は30分ぐらい食べ続けたら限界がきたのに、そのうち1時間ぐらいずっと同じペースで食べ続けられるようになってきたんです。あと、食べる前と食べた後に体重計に乗ると、14キロとか増えている。そうやって数字の上でも伸びていることが実感できました」

満を持して臨んだ次の「TVチャンピオン」の大会では見事に優勝。その後、TBSの「フードバトルクラブ」でも絶対王者と言われていた小林尊を打ち破り、優勝を果たして賞金1000万円を手にした。

2004年、ニューヨークでのホットドッグ大食い大会で準優勝した際のひとコマ。優勝は小林尊(写真:ロイター/アフロ)

ここから白田の伝説が始まった。命を削るようなトレーニングを続けて、勝利を重ねた。

「当時のトッププレーヤーたちはみんなアスリートみたいな考え方でしたね。それこそ『オリンピックの種目になったらいいね』みたいな話もしていました」

大食いアスリートのトレーニングの苦しさは、私たちが日常的に体験している「ちょっと食べすぎて満腹になる」というあの感覚とは次元が違う。

白田の場合、大会の2カ月半前から練習が始まる。誰も見ていない環境で、ただ1人で黙々と苦しみに耐え抜き、少しずつ胃を広げていく。

「人間の体の構造上、胃の中に食べたものが十数キロも入るっていうのが異常なことじゃないですか。だから、限界まで広げると胃がほかの臓器を圧迫して、臓器の位置がズレてくるんです。胃が前にあるから、ほかの臓器は後ろにグッと押されて、背中がボーンと膨らむんです」

その状態になると立ち上がる瞬間にはよろけてしまうし、まっすぐ歩くこともできない。自らの肉体を「大食いのためだけの巨大食料庫」と化すことで、驚異的な量の大食いを実現できるようになった。

アスリートとしてのモチベーションが保てなくなった

白田は選手として大食いに挑むだけではなく、番組の作り手にもさまざまな提言を行っていた。彼が特にこだわったのは、競技としてのルールを厳格にすることだった。

「例えば、1杯200グラムのカレーを何杯食べられるかというのを競っているのに、盛り付け方がいい加減だと量にばらつきが出ちゃうじゃないですか。だから、そこは『1グラム単位で細かく計量してほしい』とお願いしたり。スタッフの人に嫌がられるぐらいこだわりましたね」

大食いブームが盛り上がりを見せていた矢先の2002年に事件が起こった。愛知県の中学生が大食いの真似ごとをして、給食のパンをのどに詰まらせて死亡したのだ。これを受けて、各局では大食い・早食い番組が自粛されることになり、ブームは一気に収束してしまった。

白田も大食い関連の仕事を一気に失い、元の生活に戻っていた。白田は飲食店の開業を目指して調理師の専門学校に通った。

その後、ほとぼりが冷めた2005年頃から徐々に大食い番組が復活して、再び盛り上がりを見せ始めた。白田もトレーニングを再開して大食いに挑んだが、そこにはもう彼の求めているものはなかった。

「その第2次大食いブームのときにギャル曽根さんとかが出てきたんです。彼女は天真爛漫なキャラクターで、試合中にメイクを直すとか、バラエティー的な面白さがありました。僕はストイックにアスリートとして大食いをやっていたんですが、時代はもっとバラエティー寄りというか、記録を突き詰める方向性ではなくなってきて。『これはちょっと命懸けられないな』と思って、僕としてはモチベーションが保てなかったんですね」

大食いが再び、真剣勝負の世界になったら

2007年に白田は大食いを引退した。そして、大食いを始める前からの夢だった飲食店の開業に向けて動き出した。

テレビの出演料や大食い大会の賞金で稼いだ5000万円以上の大金を食べ歩きにつぎ込み、徹底的にリサーチを続けた。そのうちに料理を食べるだけでだいたいの原価率が計算できるようになった。

そして、満を持して2009年に大阪・道頓堀で「串カツしろたや」をオープンした。

内装から料理の味付け、ソースに至るまで、白田のこだわりが発揮された店が誕生した。経営は順調で11年目の現在も店はにぎわっている。

「大食いの白田」を期待して店を訪れた客のためのサービスとして、通常より大きいサイズの「ジャイアントメニュー」も用意している。

飲食店経営者となった今も、大食い界には一家言ある。ライバルたちとしのぎを削ってきた白田は、大食いが再び真剣勝負の世界になってほしいという思いを捨てきれない。

「僕とか小林(尊)くんとか、あのときの世代が作った強烈なインパクトってあると思うんですよ。大食い好きな人たちは割と『あの時代は面白かったね』って言うんです。それをぶち破るぐらいの強烈な選手が出てきたら、また業界は絶対に盛り上がるんだろうなって思っているんで、そうなってくれたら楽しいですね。そういう存在が現れたら、また僕も血が騒ぐ可能性はあります。こいつ、めっちゃすごいな、こいつと一戦交えたいな、って思うかもしれない」

トレーニングをしていない白田の体は大食い勝負ができる状態にはなっていない。本人も「もう大食いに未練はない」と言う。

とはいえ、「カレーだったら今は3キロぐらいしか食べられないです」と語る彼はまだ常人には手の届かない別次元にいる。数々の伝説を残してきた大食い界の巨人は、今もその高みから大食い界の未来を見つめている。


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