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塩田亮吾

「労働法制は本当に不本意です」――平成の規制緩和、宮内義彦が変えたもの変えられなかったもの

2019/04/25(木) 09:32 配信

オリジナル

平成の30年間、絶えず政治の議題に上っていたのが「規制緩和(規制改革)」。多様な分野の法制度を見直し、自由で公平な競争を促す取り組みだ。レンタル制だった携帯電話端末が売り切り制になったり、インターネット販売で医薬品が買えるようになったり。今、当たり前に提供されているサービスも規制緩和で実現したものが少なくない。一方で、労働規制の緩和では不安定な非正規社員が増えているという批判もある。その規制緩和に関して、政府の関連会議で長く主導的な立場にあったのが、オリックスのシニア・チェアマン、宮内義彦氏だ。平成が終わろうとする今、宮内氏はどう振り返るのか。(ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「意味がなかった」報告書

──宮内さんは平成の初期から規制緩和関連の会議に関わっていました。1991(平成3)年には、臨時行政改革推進審議会(第3次行革審)の部会の専門委員を務めました。当時は海部俊樹内閣でした。

私は経済同友会(企業経営者の団体)からの若手メンバーとして参加しました。部会長は細川護煕さん。当時、2期務めた熊本県知事を退任されて浪人の身で、日本新党の旗揚げを画策されているころでした。結果から言うと、その部会で報告書は出しましたが、「意味がない」ものでした。

基本的に報告書は「規制改革すべし」という方向性で書かれていましたが、どの項目も終盤で「しかしながら」と現状維持を追認していました。委員の中に規制を守りたい派の官僚出身者がいたからです。要は、相打ちの内容でした。そんな報告書、政府に出しても0点、意味がないんです。骨折り損な委員会に出てしまったなというのが最初の印象でした。

細川護煕氏は日本新党の代表に就任して「新党ブーム」を巻き起こし、非自民の連立政権で首相となった(写真:毎日新聞社/アフロ)

その後、1993年に細川さんが連立政権で首相となり、規制改革推進を掲げる経済界や学界から民間の委員だけを集めた行政改革委員会を設置する枠組みをつくりました。規制を所管する官僚OBを一切入れなかったことが重要です。また、仕組みとしてもきちっと整備しました。委員会が見直すべき規制を答申として内閣に提出し、内閣が閣議決定する手続きにしたのです。これは非常に強い仕組みです。閣議決定となると、答申で触れられた規制の関係省庁は実行しなければならないからです。

オリックスのシニア・チェアマン、宮内義彦氏は1935年生まれ。関西学院大学商学部を卒業後、当時としては珍しく米ワシントン大学に留学、MBA(経営学修士)を取得した。帰国後の1960年に日綿実業(現・双日)に就職、1964年に新会社を設立する形でオリエント・リース(現・オリックス)に入社すると、1980年、45歳という若さで社長に就任。その後2014年までの長きにわたり、同社トップを務めてきた。

1995年、村山富市首相による自社さ連立政権が行政改革委員会内に規制緩和小委員会を設置。宮内氏も参加し、翌年には座長になった。以来10年余りにわたって政府の規制緩和を推進する会議でトップを担った。ただ、始めてみると予想以上に進まなかったという。

(撮影:塩田亮吾)

冷戦後、市場経済を強化したかった

──最初に取りかかったものは何ですか。

それが作戦として最悪でした。出版や新聞の「再販制度」(再販売価格維持制度)を取り上げたんです。そしたら、新聞社があっという間に「何ごとか!」と社説から何から猛反対。てこでも動かないだろうなということで、取り止めることになった。

再販制度だけではないです。何かの規制が小委員会で取り上げられると、委員は“袋だたき”状態でした。自宅の周りで拡声器で批判をされたり、ある場所で小委員会の会議をしたらデモ隊がやってきたり。どことは言いませんが、抵抗する力は大変なものでした。

結局、ある規制を緩和しようとすると、それまで安定していた業界が経済的に危うくなる。それで関係者が反対する。そこで、まず彼らは政治に働きかけるけど、政治は動かない。それで規制緩和の委員会はけしからんとなって、攻撃してくるというわけです。

──宮内さん自身はどういう規制に問題意識がありましたか。

個別案件で考えていたわけではありません。むしろ経済全体として、本当の市場経済づくりを日本はすべきではないかと思っていました。ソ連の崩壊があり、資本主義が唯一の世界の経済発展の原理になった。しかし、日本を見ると、80年代以降も、実態は市場経済とは程遠い統制経済でした。だからもっと市場経済を強化し、自由闊達で公正な競争をすべきだと。

1991年のソ連崩壊後には、多くのレーニンの像が撤去された(写真:AP/アフロ)

戦中や戦後は資源が限られているから、その有限な資源をうまく配分するのが国家として重要だったわけです。一つひとつの産業界を育成し、秩序を持たせようと考えて、その業界ごとに「業法」をつくった。臨時石炭鉱業管理法、石油業法、道路運送法……。

そこに民間企業が参入するには、省庁の許認可が必要だったし、所管官庁には価格決定権まであった。なぜかと言えば、たとえできの悪い企業でも認可を与えたら食っていけるようにする、というのが行政の当時の考えだったからです。

しかし、経済成長を遂げ、GDP(国内総生産)で世界有数の経済大国になった段階で、そんな統制経済でいいわけがない。業法の廃止は大きなテーマでした。

理論武装して官僚と戦う

当時の規制を数例挙げれば、「医薬品の薬局以外での販売禁止」「携帯電話端末はレンタルのみ可能」など。こうした規制を見直すのが、宮内氏ら委員の役目だった。

(図版:ラチカ、写真:森田直樹/アフロ、ロイター/アフロ)

──委員会ではどのように議論を進めたのでしょうか。

まず委員は委員会で自由に議論します。その後、医療、交通、金融など業界ごとに担当を持ちました。担当者は学者など専門家を呼んで、勉強会をする。それで理論武装をし、見直すべき切り口を検討していく。根拠を持っておかないと、規制当局側に議論で負けてしまうからです。

──90年代の規制緩和では、橋本龍太郎政権での「日本版ビッグバン(金融制度改革)」は大きなインパクトがありました。

(英米の自由化と比べて緩和の規模が小さいので)「金融スモールバン」だと私は言っていました。ただ、橋本さんは主導的に動かれた。その政治主導はお見事でした。例えば、株式売買手数料の自由化。後で私は証券業界の偉い人からクレームを言われました。「あんた一体何をするんですか!」と。実際、証券会社はバブル時代、売買手数料で大儲けしていたのが、その手数料収入が何十分の一に下がってしまったわけですからね。しかし、金融セクターの規制緩和で、金融商品の種類が増え、個人の投資家の増加にもつながった。すごく効果があったと思います。

航空業界の規制緩和も大きかった。参入障壁を下げるように頑張った結果、(運賃や運行路線の)条件が緩和されました。ところが、なかなか参入者がいない。そうしたら、ある日(旅行会社のHISの代表である)澤田秀雄さんが私のところへ来られて、やりたいので、出資してほしいと。当時、私は委員会の座長でもあったので、その人物の会社が協力するのはどうかと思ったのですが、他になかなかいない。そこで、新会社のスカイマークエアラインズ(1996年11月設立)にオリックスは一部出資したんです。

第1回行政改革会議であいさつをする、橋本龍太郎首相(写真:読売新聞/アフロ)

派遣法改正は「誠に不満足」

──規制緩和には批判もあります。小渕恵三政権の1999年12月、改正労働者派遣法が施行されました。派遣労働が原則解禁され、その後、非正規社員が大きく増えていく根拠となりました。

派遣法改正は誠に不満足です。労働法制全体として、働き方の選択肢を増やし、労働の自由化をすべきというのがわれわれの狙いだったんです。非正規社員のあり方も認める一方、正規社員のほうも働き方や解雇規定を見直す。そういうつもりで取り組んだわけです。日本の正規雇用は、あまりに聖域化されています。正規雇用はAクラスでいったん身分が決まったら生涯保障され、できの悪い社員の解雇もままならない。一方で、そうじゃない非正規雇用はずっとBクラス扱い。雇用形態で序列になること自体がおかしいでしょう。

だから、われわれ規制緩和委員会としては、まず非正規側の多様な選択肢をつくった上で、正規雇用側の解雇規定をつくろうとした。ところが、それに対して正規雇用の労働組合側が「ノー」と反発した。結局、いまだに正規雇用を守る仕組みは続いています。本来は正規と非正規、両方の規制緩和をやるべきだったが、片方がなかなか動きそうにないので、もう片方だけでもという思いで進めてしまいました。派遣法改正を先に進めたのは作戦として良かったかどうか分からないですね。

(写真:塩田亮吾)

──2004年には製造業の派遣も解禁されました。日雇い派遣などで「ワーキングプア」問題が注目されたのもこの時期からです。当時の報道で、経団連からの強い要望があったとあります。

ありました。当時の総合規制改革会議事務室には6月、11月に規制改革要望を受け付ける時期があって、その時期から「あじさい、もみじ」と呼んでいました。その最大の要望者が経団連でした。そうした要望に製造業派遣もあったと思います。ただ、非正規側だけを自由化するつもりはなくて、正規側も変えたかったんです。

今春、「働き方改革」関連法が施行されましたが、あの法律は「残業しちゃいかんよ」というだけ。もっと労働の自由化や流動性を高める施策をすべきだと思います。合理的な解雇規定を整備すれば、企業はもっと正規雇用を増やすと思います。

(図版:ラチカ、出典:労働力調査)

──規制緩和が進み過ぎて見直す動きもあります。例えば、タクシー業界では増車しすぎた結果、売り上げが下がって、仙台のように「減車」する地域もありました。

タクシー業界は既得権益が強い業界で、政治に働きかけて、既存の台数を守っていたわけです。それを何年もかけて緩和していった。ところが、売り上げが前年度の10%を下回った地域は業者を規制できるという項目を付帯条項として残していたんです。それで揺り戻しになった。酒類販売でも同じような条項が付いていました。いまだ日本では(一般の人の車に乗って料金を支払う)Uberなどが許可されていませんからね。

(写真:ロイター/アフロ)

動かなかった「岩盤規制」

──小泉純一郎政権時代(2001~06年)には、宮内さんは批判を浴びることになりました。

あのころから規制改革会議がなんとなく悪者みたいな扱いになって報じられるようになりましたね。実は、小泉政権のころは壁にぶち当たっていました。90年代、規制緩和は比較的よく進んだんです。経済界では抵抗も多かったし、怨嗟の声も多かったですが、メディアはさほど悪い報じ方ではなかった。

ところが、小泉政権のころになると、まったく進まなくなる。急峻な山というか、岩盤が現れて、進まない。よく言われる岩盤規制です。国民皆保険制度や混合診療のような医療制度、教育制度、農業制度……まったく動かないものが出てきたわけです。

一方で、小泉さんの最大の関心は郵政民営化。「劇場型」と言われるように、薬のネット販売や混合診療についての是非を公開討論でやったりしていたから、世間の関心は高まったように思います。でも実際には規制緩和は止まっていたという印象です。

小泉純一郎首相(左)に総合規制改革会議の最終答申を手渡す宮内氏(写真:毎日新聞社/アフロ)

役立っていると思うが、達成感はない

小泉政権時代の規制緩和は「小粒」なものが多かったと宮内氏は振り返る。医療機関のレセプト(医療報酬の明細書)のオンライン化、国家公務員給与の全額振り込み(それまでは現金支給)、農業生産法人への企業の出資比率引き上げ(50%未満)による農業への参入など。宮内氏は小泉首相の退任とともに役職を辞任。規制緩和の委員会から退いた。

──実現した規制緩和で役立っていると思うものはなんでしょう。

たくさんありますから難しいですが、一つは携帯電話端末の売り切りですかね。また、料金の自由化による通信費の削減もそうですね。今はネットで無料で話せますが、以前は数分で数千円という請求もありましたから。

Suicaのような非接触型ICカードもそうですね。以前は電波を発信する無線局は、一つひとつ申請しなくてはならず、例えば自動改札機1台ずつに申請が必要だった。

運輸で言えば、貨物航空便で復路は積んではいけないという規制があったのを積めるようになったのもそう。みんな多くの人にメリットがあったと思いますよ。

1995年の携帯電話売り場(写真:Fujifotos/アフロ)

総論で言うと、達成感はないです。変えられなかった挫折感のほうが大きいですね。僕が10年余り座長・議長をやったのは、僕の首を取りに来る人たちがいたから、逆に反発して「辞めんぞ」でやってきたわけです。

ただ、規制に対する抵抗は、官も非常に硬いのですが、それだけじゃない。日本の人たち全員です。社会制度になっているものは日本では非常に動かすのが難しい。

──規制緩和に長年、取り組んだ動機には何が関係していますか。

私は昭和10(1935)年生まれで終戦時に小学4年生、10歳でした。夏までは「鬼畜米英」「天皇陛下万歳」と言ってたのが、8月15日を過ぎたら「マッカーサー元帥万歳」と。それはもう子ども心に「世の中どうなったんだ」と不信になりますよ。だから、もともと出来上がった常識を後生大事にするのではなく、大したものじゃないと考える。そういう時代背景は関係しているのかなと思いますね。

(撮影:塩田亮吾)


森健(もり・けん)
ジャーナリスト、専修大学非常勤講師。1968年、東京都生まれ。2012年に『「つなみ」の子どもたち』で第43回大宅壮一ノンフィクション賞、2015年に『小倉昌男 祈りと経営』で第22回小学館ノンフィクション大賞を受賞。2017年、同書で第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。公式サイト

[写真]塩田亮吾
[図版]ラチカ


【連載・平成時代を視る】
まもなく終わりを迎えようとする平成時代。この30年で社会のあり方や人々の価値観はどう変わっていったのか。各界のトップランナーの仕事は、世の中の動きを映しています。平成を駆け抜けた著名人のインタビューを通して、分野ごとに平成時代の移り変わりを概観します。