提供:Shah Marai

「いつか笑顔を撮りたい」紛争地の報道カメラマンの夢

2016/6/9(木) 10:51 配信

アフガニスタンの首都カブールを拠点とするAFP通信の報道カメラマン、シャー・マライは、取材中に目撃することがある暴力や惨事を思い出し、夜眠れなくなることがある。しかしいつか国に安定する時代が訪れると夢見ているという。

アフガニスタンに生まれ育ち、その姿を撮り続けるマライに、同国の情勢や同僚の死、そして彼自身のストーリーを聞いた──。
(Yahoo!ニュース編集部/AFPBB News編集部)

危険を伴う仕事だが、シャー・マライはアフガニスタンでの報道カメラマンの仕事が好きだと話す。同僚の一人が2014年に殺害され、家族から仕事を辞めてくれと頼まれても、その気持ちは変わらない。「私はジャーナリズムが好きだ。写真が好きだ。この仕事は私の夢だったし、今後の夢でもある」とAFP通信のカブール支局で語った。

「毎日、さまざまな場所からさまざまなニュースが入ってくる。人々が抱えている問題が耳に入ってくる。私は写真を通して、アフガン人の生活、置かれている状況や状態を伝えることができる。世界の人々がここアフガニスタンで起きていることを知ることができるのだ」

アフガニスタンの首都カブールで、燃料として使ったり再利用したりするために廃棄物を運ぶ子どもたち(2007年2月5日撮影) (c)AFP/SHAH Marai

現在39歳のマライはカブールで生まれた。2002年にAFPのスタッフカメラマンとなって以来、自爆攻撃などの治安問題や政治に関わる硬派なニュースから、より身近な社会問題まで幅広く伝えてきた。最近では、サッカーのアルゼンチン代表リオネル・メッシ選手のユニホームをポリ袋で作って着ていた5歳の少年の写真を撮影し、ネットで大きな話題になった。

カブールで、ポリ袋で作ったリオネル・メッシ選手のユニホームを着てサッカーをする5歳のムルタザ・アフマディ君(2016年2月1日撮影) (c)AFP/SHAH Marai

マライの優しい笑顔からは、彼が多くの惨事を目の当たりにしてきたことなど分からない。だが彼には、何年も頭から離れない映像が数多くある。目撃した悲劇について考え、それがいつ終わるのだろうと自問し始めると、何時間も寝られない夜がよくあるという。

「人を傷つける写真がある。脳裏に焼きついて離れず、鮮明に覚えている。目の前で子どもや女性が死んでいく場面をみた後、ぐっすり寝ることなどできない」

カブールの郊外で、壁に寄りかかる子ども(2011年10月4日撮影) (c)AFP/SHAH Marai

アフガニスタン北部クンドゥズの隠れ家で取材を受ける20歳のアフガン女性。民兵の求婚を断ったために酸をかけられ、重い後遺症を負った(2015年5月20日撮影) (c)AFP/SHAH Marai

運転手からカメラマンへ

マライは1996年、19歳の時に運転手としてAFPでの仕事を始めた。カブール周辺で取材する記者を目的地に連れて行ったり、カメラマンの写真の現像を手伝ったりした。

カメラマンの仕事を見ながら自分でも写真を撮るようになり、「毎日が勉強」の日々が始まった。1998年、20歳の頃には、彼が撮った写真がAFPに採用され、アフガニスタンでも購入できるパキスタンの新聞に掲載された。当時を振り返り、「とても幸せだった。自分が撮った写真を新聞で見るのは初めてだった」とマライは話す。

タリバン政権下の1996年から2001年には報道が厳しく規制されたため、多くの外国人ジャーナリストたちがアフガニスタンを去った。

「タリバン政権の時代、カメラマンが写真を撮影することは容易ではなかった。危険を伴っていたし、私は命を危険にさらしていた…だが私は若く、何も分かっていなかったのだろう」と、彼は笑いながら振り返った。

カブールにあるAFPのオフィスで、ピュリツァー賞を受賞したAFPの元写真記者マスード・ホサイニさん(右)と談笑するシャー・マライ(左、2012年4月17日撮影) (c)AFP/JOHANNES EISELE

2001年9月11日の米同時多発テロの後、米軍と同盟国がアフガニスタンを攻撃し、タリバン政権は崩壊した。攻撃が始まった際には徹夜でAFPの地域担当者らにニュースや翻訳文を送った。この時期、約1か月間にかけてマライは他に誰もいなくなった支局で写真の送信など「すべての仕事をこなした」という。

タリバン崩壊後、仕事は楽になった。だが最近は、ジャーナリストの仕事を理解せず大事だとも思っていない治安当局が、メディアのアクセスを厳しく制限するようになってきたと話す。「アフガニスタンでジャーナリストをするのは楽ではない。他の国のような、報道の自由がここにはないからだ。誰もジャーナリストを信用しない」

カブール郊外にある、内戦で廃墟となったダルラマン宮殿の前に設営されたテントの中で授業を受ける少女(2010年10月27日撮影)(c)AFP/SHAH Marai

銃撃され死亡した同僚

メディアに対する不信に加え、ここでは頻繁に起きる自爆攻撃や銃撃、爆撃、その他の暴力などの治安上のリスクがある。

国際非営利団体「ジャーナリスト保護委員会」によると、1992年以降にアフガニスタンで殺害された記者は27人。うち3分の1は戦闘に巻き込まれて死亡したという。アフガニスタンは死亡した記者の数が世界で12番目に多い国となっている。

マライの同僚のAFPのカメラマン、サルダール・アフメド記者は2014年3月、カブール近郊の最も安全な地区の一つとされていたホテルをタリバンが襲撃した際に銃で撃たれて死亡した。40歳だった。

AFPの元記者、サルダール・アフメド氏と息子たち。アフメド氏はカブールのホテル襲撃事件で死亡した(2014年3月20日撮影)(c)AFP/Joris FIORITI

ホテル襲撃事件で重傷を負い、カブール市内の病院で治療を受ける、アフメド氏の次男アブザル君。アフメド氏の家族の中で唯一生き残った(2014年3月25日撮影)(c)AFP/SHAH Marai

カブールの病院でスパイダーマンのおもちゃで遊ぶアブザル君(2014年3月27日撮影)(c)AFP/SHAH Marai

アフメド記者は家族と、イラン暦の大みそかを祝っていたところだった。妻と6歳の娘、5歳の息子を含む9人がこの襲撃で死亡した。末っ子の2歳の息子は負傷したが、奇跡的に助かった。襲撃は、同年4月に実施された大統領選を妨害する目的で行われた一連の襲撃の一つだった。

選挙を前に起こった一連の襲撃事件では、少なくとも2人の外国人ジャーナリスト(AP通信のドイツ人カメラマンとスウェーデン国営ラジオの記者)が死亡している。

マライはアフメド記者が死亡して以来、以前のように友達と出かけることもなく、家族と一緒に家で過ごすようになったという。彼には、上は16歳、下は10歳までの息子が5人いる。

アフメド氏の葬儀でスピーチをするシャー・マライ(2014年3月23日撮影)(c)AFP/Roberto SCHMIDT

アフガニスタンで週末が始まる金曜日になると、いつも生まれ故郷であるカブール北部の村グルダラに妻と子どもたちを連れてピクニックに出かける。

「私は家族を夕食に連れて行ったりしない。治安は悪化しており、何が起きるか分からない。襲撃を恐れている」と、彼は言う。

「なぜサルダールが殺されたのかまだ分かっていない。彼は標的だったのだろうか? おそらく最悪の時に最悪の場所に居合わせたのだろう」

AFPのジャーナリストは治安上の懸念からあまり国内を移動しないとマライは語る。タリバンは依然としてアフガニスタンの一部を支配しており、いくつかの地域では勢力を拡大させている。

カブール北部のクンドゥズ州で、大統領候補アシュラフ・ガニ氏の支援者たちの集会を見つめる治安部隊の兵士(2014年3月19日撮影)(c)AFP/SHAH Marai

AFPの元写真記者、マスード・ホサイニは2012年、優れた報道などに授与されるピュリツァー賞の「ニュース速報写真」部門賞を受賞した。2011年12月にカブールで起きた宗教行事を狙った自爆攻撃の直後に撮影した、泣き叫ぶ少女の写真だった。同写真は世界報道写真財団の2012年「世界報道写真コンテスト」の「スポットニュース」賞部門で2位も獲得した。

「私は闘う必要がある」

AFPカブール支局には現在、9人の編集スタッフがいる。襲撃を取材するときは、通常は着用しないヘルメットと防弾ベストを使用する。またAFPの支局には地下に避難シェルターを設けており、緊急事態に備えて食料や医薬品などが備蓄されている。

危険と隣り合わせの仕事への懸念から、マライの家族は彼に仕事を辞めるよう求めている。母親は小売店の店主など「何か違う」仕事をしてくれと迫るのだという。

「攻撃や爆発があると、母はいつも電話をかけてきて、私の居場所を確かめる。だから私はうそをついて家に居ると言うしかない」

カブールの旧市街で、クッキーを焼く労働者(2008年3月12日撮影) (c)AFP/SHAH Marai

だが、彼は仕事を辞める気はないと語る。「もし私がこの仕事を辞めたら、誰か他の人がやらなくてはならない。だから私は闘う必要がある。何か起きても強い気持ちを持たなければならない」

そして、これまでに人命救助か撮影かの選択を迫られたことはないが、もしそのような状況に追い込まれたら、人命救助を優先すると語る。「人間として助けるのが道理」だからだ。一方、誰か他の人が助けているような場合には、「自分の仕事、撮影を優先するだろう」と述べた。

雪の降るカブールで、道路のぬかるみに座り物乞いをする女性(2013年2月4日撮影)(c)AFP/SHAH Marai

多くの人は当初、写真に撮られることを敬遠し、中には怒る人までいる。そんなときは、相手が撮影に応じてくれるまで、しばらく話をして落ち着かせるという。

「彼らにどう接すればいいか知っている。普通の人たちとどう話せばいいのか分かっている。(同胞たちに)優しくしないといけない」とマライは語った。

アフガニスタンでは襲撃事件が日常的に起きている。フランス・パリや、ベルギー・ブリュッセルなどテロが珍しい地域での事件と比べると、アフガニスタンは国際メディアの注目を集めることはなくなったと感じている。「欧州で襲撃事件はまれで注目される。だがアフガニスタンでは違う。この国では私が生まれた時から戦闘があった。40歳近くになった今も、まだ戦闘が続いている」

その一方で、ファッションショーなどのイベントはアフガニスタンでは珍しいため、大々的に報じられる可能性が高いと説明した。

カブールで、民放テレビ局トロのミニバスを狙った車による自爆攻撃で死亡した同局職員の遺体に寄り添う親戚(2016年1月21日撮影)(c)AFP/SHAH Marai

アフガンの「小さなメッシ」

今年、ネットで大きく取り上げられ、話題になったものの一つに、東部ガズニ州で暮らす5歳のムルタザ・アフマディ君の写真がある。これは、サッカー男子アルゼンチン代表のリオネル・メッシ選手のファンである弟のために兄がポリ袋でユニホームを作り、それを着た弟の写真をフェイスブックに投稿したものだ。

ネットで大きな注目を集めたムルタザ君はカブールに招待され、メッシがサインした本物のユニホーム2着をもらうことができた。

「彼らにとって幸せな話だった。でも最初はそうじゃなかった。ポリ袋を着た少年の話なのだから」とマライは指摘する。ムルタザ君は迫害を受けている少数民族ハザラ人だ。

ムルタザ君がカブールに来た時には彼の写真を撮影したという。父親に事前に連絡してインタビューの約束を取りつけ、支局近くの学校で会った。

「サッカーとメッシに夢中な少年と会うのは興味深かった。ここでは大半の子どもがメッシを知らないからだ。カブールから遠く離れたところに住んでいるこの子が、どうやってメッシのことを知ったのか?」

「父親は、家に衛星放送用のパラボラアンテナがあり、そこで試合を見ているのだと話していた。それでメッシのファンになったとも」

ムルタザ君とその家族はアフガニスタンを逃れ、パキスタンに避難している。AFPの取材に応じた父親によると、ムルタザ君にメディアの注目が集まるようになってから、脅迫電話がかかってくるようになり、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に助けを求めたという。

カブールで、夕暮れにバレーボールをするアフガンの少年たち(2007年5月30日撮影)(c)AFP/SHAH Marai

「いつか笑顔を撮りたい」

マライは将来、アフガニスタンでの紛争が終結することを願っている。彼が撮影する人々の大半は貧しく、彼に助けを求めてくる。世界銀行の2011年のデータによると、アフガニスタン人の約36%は貧困ライン以下の生活を送っているという。

「助けるとしても、助けられるのは1人だけ。すべての家族を助けるのは無理だ。私ができる唯一のことは、写真を広めることだ」。その写真が、助けようと思う気持ちとその手段を持つ誰かの心を動かすことを願っていると語る。

「いつかアフガニスタンが安定した国になり、幸せなニュースの写真を撮影できるようになりたい。人々の笑顔や幸せな表情を撮りたい。そんな日が訪れることを私は夢見ている」

カブールの旧市街で、伝統菓子のあめを作る労働者(2008年1月30日撮影)(c)AFP/SHAH Marai

アフガニスタン北部マザリシャリフのモスクの前で、ハトに餌を与えるウズベク族出身の女性(2007年2月28日撮影)(c)AFP/SHAH Marai

カブールで開催された、国技とされる伝統の騎馬競技「ブズカシ」に参加した人たち(2008年4月5日撮影)(c)AFP/SHAH Marai


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[取材・文]ジュリア・ザッペイ
[映像監修]田之上裕美

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