伊藤圭

「まだこの世界には希望が持てる」――芸人・カラテカ矢部、自分の漫画が売れて思うこと

2/7(水) 10:08 配信

カラテカの矢部太郎、40歳。生き馬の目を抜くテレビバラエティーの最前線とは距離をおいたところにいるように見える、地味で普通の芸人。

たまにテレビに呼ばれるのは、ガリガリの体形を生かしてプロレスラーに投げ飛ばされたり、ラジコン30台で引っ張られたりする「イジられ仕事」ばかり。

4カ国語をマスターして、気象予報士の資格を持つインテリ芸人の一面もあるが、緊張すると股間に手をやってしまうという悪癖も災いして、トーク系の番組ではなかなか持ち味を出しきれない。

そんな矢部が昨年10月にコミックエッセー『大家さんと僕』(新潮社)を出版した。

彼が住むアパートの大家さんであるおばあさんとの心温まる交流を描いたこの作品は、発売されるとすぐに各方面で話題になり、20万部超えのベストセラーとなり、現在はショートアニメーションも公開されている。

地味な芸人が丁寧に描いた何気ない日常の物語が、これほど多くの人の心に刺さった理由は何なのか。(ライター・ラリー遠田/写真・伊藤圭/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「最初は意図が分からず、恐れていた」

今から8年前、矢部は一軒家の2階にある部屋で暮らし始めた。1階では50歳近く年上の大家さんが1人で暮らしていた。最初は特に何の付き合いもなかった。自分の洗濯物が勝手に取り込まれていたり、夜に帰宅するとすぐに電話がかかってきたりすることに戸惑っていたからだ。

「どういう意図を持って近づいてきているのか分からなかったので、初めはちょっと怖さを感じていたんです。でも、洗濯物を取り込んでくれたのは、干していた服が夜露に濡れると良くないからっていうことだったり、いきなり電話をかけてくるのも頂き物のお菓子を半分おすそ分けしてくださるためだったり、僕のことをすごく考えてくれているんだな、というのがだんだん分かってきたんです」

『大家さんと僕』より

家賃を手渡しするたびにお茶に誘われ、のらりくらりと断り続けていたのだが、ついに断りきれなくなって家に招かれた。いざ話をしてみると、大家さんは今までに出会ったことのないタイプの人間だった。

「『ごきげんよう』って挨拶する人にも初めて会いましたし、好きなタイプは『マッカーサー』だと言っていたりして。信じられないような答えが返ってくるのがめちゃくちゃ面白いなあと思って、興味を持つようになったんです」

世代も育ちも違う大家さんの話は、最初はほとんど何を言っているのか分からなかった。知らない話題が出てくるとこっそりネットで調べたりしながら、何となく話を合わせているうちに、だんだん理解できるようになってきた。

「大雪が降っていた日に、『東京でも雪が積もることがあるんですね』って何気なく話したら、『二・二六事件があったのもこんな雪の日だったの』って返されて。歴史上の話をつい最近のことみたいにお話しされるんです。急にタイムスリップしたような感覚になるんですよね。戦前の感覚そのまんまで生きているみたいな感じで、上品で浮世離れしているんです。今でもコンビニとかには行かないみたいですし、どうしたらああいうふうに年を取れるのかな、って思います。今、スピードや効率が重視される世の中で、大家さんがそうやってゆったりとした時間を過ごして、少女のままでいられる感じが、すごく尊いもののような気がしています」

大家さんと2人の世界を守るために

大家さんは小説を読むのも大好きで、最新の芥川賞受賞作をチェックしたりもする。その点でも読書家の矢部とは話が合う。2人でお茶をしながら、本の感想を語り合ったりする様子は、世代を超えた「文化系女子会」のようだ。

「僕には姉がいて、もともと少年漫画とかもあんまり読んでいなかったし、どちらかというと少女のようなところがあるんです。だから、大家さんと話しているとき、趣味の合う女友達同士みたいな感覚はあるかもしれないですね。向こうがどう思われているのかは分からないですけど、時間も気にせず長くおしゃべりしたりしていますから」

「二・二六事件」を昨日のことのように語る大家さんは、まるで生きる重要文化財。文化財の保護を職務とする学芸員よろしく、矢部はそんな大家さんの「尊さ」を守るために悪戦苦闘している。

『大家さんと僕』より

「この前、大家さんが親戚の方からグミをプレゼントされたんです。普段はちゃんとしたデパートに入っている、昔からある和菓子屋さんのお菓子しか食べない方なので、自分ではグミなんて絶対買わないと思うんです。でも、いざ食べてみたらハマっちゃったらしくて。『あれをまた食べてみたいわ』みたいな感じのことを僕にも言ってくるんです。上品な大家さんにグミはあんまり似合わないですが、グミに夢中な姿も、少女のようで可愛らしいです」

漫画が売れて思う「まだこの世界には希望が持てる」

そんな仲良しの2人だが、矢部は大家さんに秘密にしていることが一つある。芸人としての自分の本当の姿を大家さんにはひた隠しにしているのだ。

「大家さんはいまだに僕のことを役者さんだと思っていると思います。舞台を見に来ていただくのも、僕が役者として出ているお芝居の舞台がほとんどですし。相方の入江(慎也)くんと漫才をやっているところは大家さんには見せられないですね。入江くんがバシバシつっこんでくるから、心配されちゃいますよ。あと、大家さんはインターネットと接していないので、それがすごい助かってますね。『ピーチゃんねる』っていうAbemaTVのお色気番組に出ているのだけは絶対知られたくないです。『漫画はほっこり、今日はモッコリ』とか言ってしまってますから(笑)」

そんな日々の努力を重ねて築き上げられた2人の関係性から『大家さんと僕』という一冊のコミックエッセーが誕生して、ベストセラーになった。それは著者である矢部にとっても驚きだった。

「僕自身が抑制をきかせた作品が好きなため、そんなにドカンドカン笑えるようなものでもなければ、めちゃくちゃ感動するというものでもないので、これが売れているというのはすごく不思議な感じがしますね。漫画じゃなかったら、こういう感じで大家さんのことを伝えたりはできなかったと思うんですよ。テレビ番組とかでしゃべっても、僕の話術の限界もあるし、真意はあんまり伝わらないんですよね。こういうのを好きな一部の人が読んで面白かったって言ってくれたらいいな、と思ってはいたんですけど、それを超えて多くの人に読まれているのはすごく嬉しいですし、まだこの世界には希望が持てるな、って思います」

編集協力:プレスラボ

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