10月、青木源太(37)が日本テレビから独立した。しかし直後にスポーツ紙から妻子との別居についての突撃取材を受ける。『好きな男性アナウンサーランキング』(オリコン)で3年連続ベスト3の人気者はコロナ禍の今、なぜ退社を決意したのか。同期入社の桝太一アナ、別居中の妻と子、知られざる胸中を語った。(取材・文:岡野誠/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース 特集編集部)
桝太一との「流氷の絆」
「嵐の『Still...』に〈ずっと隠していた秘密だって 君だけには伝えて来たんだ どんな時も僕の全て たぶんまだ…〉という歌詞があります。まさに、桝君と僕の関係です」
2019年春、青木は独立の決意を固め、近しい2人に気持ちを打ち明けた。ひとりは妻、もうひとりは「桝君」「源太」と呼び合う親友の桝太一アナである。
「流氷を見たい」という共通の思いが重なり、2人で北海道の知床半島に旅行に出かけた。
「彼は反対することもなく、耳を傾けてくれました。僕の思いを聞き、受け入れて、背中を押してくれたんです。独立に際したアドバイスなんかもありました」
数カ月後、日本テレビの上司に退社の意思を伝えた。しかし、事はすんなりとは運ばない。話し合いが幾度となく設けられ、「2020年の東京五輪は、全社を挙げて取り組むイベントだ。そこまではやって、その後考えてみないか」と慰留された。
考えた末に青木は、一度は話を引っ込めた。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大によって、今年3月に東京五輪の延期が決定。青木は、独立を決心した。
「コロナ禍で自分の将来を考える時間が増え、働き方改革も進む中、会社員として働いていくのは時間的な制限がかかってしまう。やっぱり垣根を越えて、めいっぱい勝負したい気持ちが芽生えました。僕は、日本一のイベント司会者になりたい。局アナでは決してできないCM発表会もしてみたいですし、呼ばれれば日本全国どこへでも行きたい。今後は新しい形でのイベントが増えていくと思います」
日本テレビとは円満に話がつき、『火曜サプライズ』レギュラー出演は継続され、同僚らにも温かく送り出してもらった。「桝君は独立祝いに、テレビ局の楽屋で使うスリッパをプレゼントしてくれました」
楽屋を使わない局アナからの変化に配慮した、桝なりの気遣いだった。
レギュラー番組の司会降板も「わかっていた」
青木が退路を断つのは、これが初めてではない。
入社6年目の2011年4月、桝アナが早朝の帯番組『ZIP!』の総合司会に抜擢される。日本テレビは、『ズームイン!!朝!』『ズームイン!!SUPER』と32年間続いた看板番組に幕を下ろし、新たなスタートを選択した。同枠は徳光和夫、福留功男、福澤朗、羽鳥慎一、西尾由佳理という局の歴史に名を残すアナウンサーが務めてきた。その大役に同期が座る。青木は衝撃を受けた。
「桝君があれよあれよという間に、スターアナウンサーの階段を駆け上がっていく。その様子を間近で見ていて、僕も刺激を受けました。一度きりの人生、後悔したくない。日に日に、『好きなことをやりたい』という思いが募っていきました」
2012年初頭、毎年恒例のアナウンス部長との面談が行われた。青木は、ある重大な決意を持って臨んだ。応接間に入って軽く挨拶を交わすと、鼓動の高鳴りを抑えながらこう告げた。
“これからはスポーツ実況を一切せず、情報やバラエティーなどスタジオの仕事をしたいです”
青木は入社以来、プロ野球や箱根駅伝など主にスポーツ実況を担当してきた。日本テレビは開局以来、プロレス中継や巨人戦の高視聴率に支えられてきた。現在、地上波での放送はほとんどなくなっているが、今もスポーツ実況はアナウンス部の花形だ。
予想さえしない宣言に、2人の管理職は驚いた様子だった。
「日本テレビの門を叩いた時から、ずっとその思いを抱えていたんです。でも、サラリーマンですから、与えられた仕事は当然しないといけない。年々、実況が増えていく中で、葛藤がありました。スポーツの日程はあらかじめ決まっているため、それ以外の仕事は自動的に限定されてしまう。正直な気持ちを伝えました」
アナウンス部の上層部で話し合いが持たれた。反対意見が大勢を占める中、「彼は腹をくくっている」とある部長が鶴の一声を上げた。
何かを得るためには、何かを失うリスクもある。青木の願いは叶ったが、「現場から声がかからなければ異動」という条件も突きつけられた。
事前に、制作陣に根回ししたわけでもない。現場から声がかかる保証は何もなかった。だが、覚悟を持って全てを捨てた男の元には、新たな仕事が舞い込んだ。4月から、『Oha!4 NEWS LIVE』のキャスターとして水曜から金曜までを担当することに。以前から出演していた『スッキリ』でのロケも増えていった。そして、2015年10月からは情報番組『PON!』の司会に抜擢された。
「目の前の仕事に一つひとつ丁寧に取り組んで、また一緒に仕事をしたいと思ってもらう。その繰り返しでした。先日、『PON!』で同じ時期にレギュラー出演していたNEWSの増田貴久さんがある番組でナレーションをしていました。当時の総合演出の人が制作していたので、理由を聞くと『また増田君と仕事がしたいと思ってさ』と話していたんです。仕事は、人と人のつながりだなと再確認しました」
青木の知名度は日増しに高まっていき、『PON!』で映画やジャニーズを熱く語る姿が認知され、イベント司会も激増。2016年12月発表の『好きな男性アナウンサーランキング』では、初めてベストテン入りを果たした。2年後には、局アナだけで回す午前中の帯番組『バゲット』の司会を任されるまでになった。自分の決断を見事にプラスに変えたのである。
独立後、『バゲット』は後輩の平松修造アナに引き継がれている。継続したい思いはなかったのだろうか。
「フリーになって出られないのはわかってました。『バゲット』はもともと局アナだけで作ることがコンセプトでしたから。僕がフリーになっても続けますよって、そんな虫のいい話はない。自分のいた席に平松君がいるのを見て、とてもうれしいです」
他方、テレビやラジオなど日本テレビ以外のメディアに出演する機会も増え、青木が求めていたイベントの司会も精力的にこなしている。芸能事務所に所属する以上、これからはタレントのような働きを要求される場面も出てくるだろう。
「テレビにも出たいですし、求められれば体を張るような仕事もやりますし、意見も言います。でも、僕はあくまでアナウンサーとして独立した。進行役として共演者が輝くような役回りでいたい」
妻と子は大阪、自身は東京に単身赴任
マスコミの洗礼も受けた。独立からわずか数日後、スポーツ紙に直撃取材され、妻との別居を報じられたのだ。大阪の医療関連会社で取締役を務める妻は、昨年から子供とともに実家のある大阪府に引っ越し、青木は東京で一人暮らしをしている。
「単身赴任の家庭と同じ感覚です。大学時代の友達が海外に駐在して、奥さんは日本に残っている例もあるし、よくあることだと思います。妻は一定しない勤務形態と収入の不安定さを心配し、退社に反対していました。でも、何度も話すうちに、僕の仕事への思いを理解してくれました。収入に関しては、当然自分が支えます。一方で、妻も生計を立てられるという安心感もありました。妻は私の独立への強固な意思を感じ取っていたので、昨年8月からこれまで以上に腰を据えて、大阪で仕事と向き合っています。妻にはとても感謝しています」
かつて桝太一が5年連続1位で殿堂入りを果たした『好きな男性アナウンサーランキング』では2年連続の2位に輝いている。昨年は10代から30代の3世代でトップに立っており、首位の羽鳥慎一に肉薄した。
「1位になりたいとは全然、もう全く思ってないです。決してアナウンサーとしての実力が2位なんて考えていないですし、自分が好きなものを好きだと言い続けてきた僕に親しみを感じてくれたのかもしれないですね」
見方を変えれば、支持層はあくまで“ジャニーズを語る青木源太のファン”であって、“青木源太のファン”とは限らない。そこをどう感じているのか。
「僕は、コンテンツの良いところをわかりやすく伝えたい。その一つに、ジャニーズももちろんあります。ひと・もの・作品などの魅力をわかりやすく伝えていくということを突き詰めていきたいと思っています」
青木は人生2度目の大勝負に出た。退路を断った男の決断が、吉と出るか凶と出るか。それはまだ、誰にもわからない。