『上海ハニー』や『花』といったヒットソングで、誰もがその名を知るところとなった沖縄の5人組バンド、ORANGE RANGE(オレンジレンジ)。以前のようにテレビや映画、CMなどで見聞きすることは少なくなったが、現在もライブ中心に精力的に活動を続ける。ORANGE RANGEは、なぜマスメディアと距離を置いたのか。「喜んでもらえるものこそ正義」の真意を聞いた。(取材・文:鈴木絵美里/撮影:長野竜成/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「喜んでもらえるものこそが正義」二十歳そこそこの5人が手に入れた成功
2003年、ORANGE RANGEは電光石火の勢いで世に飛び出した。デビュー当時は全員二十歳そこそこ、RYOにいたっては高校生だった。デビュー翌月にリリースした『上海ハニー』はノンタイアップながら20万枚以上も売り上げ、名実ともに代名詞となる楽曲を手に入れた。YAMATOは「でも実は、『上海ハニー』にフィットしていないメンバーもいたんですよね(笑)。5人みんな好きな音楽ジャンルもタイプもバラバラ。デビュー当初はかなりバチバチと意見を交わすこともありました。最初はもう『バラードなんて絶対やらない!』って言っていたくらいで」と明かす。
そんな彼らにとって初のポップなサマー・ソング『上海ハニー』のヒットで考え方が一変した。
「僕はミクスチャーのような音楽が理想だったんです。インディーズからメジャーデビューまでトントン拍子で話が進んでいて、『キリキリマイ』もその勢いのまま自信を持ってやったんですけど、いざ出してみたらもう全然“ランキング外”で、正直、気持ちが一度かなり落ちました。でも、爆発的に楽曲が広まったことで、決定的に意識が変わりましたね。『なんでもやってみるべきだな。喜んでもらえるものこそが正義だな』と思ったんです」(HIROKI)
方向性の違いが生まれていたバラードについては話し合いを重ね、新たな表現の形を模索し続けた。
その甲斐あって、2004年に出した5枚目のシングルで取り組んだバラード曲『ミチシルベ 〜a road home〜』では初のオリコン首位を獲得、さらに8thシングル『花』は約100万枚を売り上げ、オリコンシングルチャートに52週登場するロングヒットを記録し、一躍脚光を浴びた。紅白歌合戦にも出場、デビューからわずか1年で日本の音楽シーンのトップを走るようになっていた。
肥大化する「ORANGE RANGE」、増え続ける「大人たち」の要求
20代前半にして手に入れたケタ違いの人気——。次々と新曲を作りながら大都市ツアーもこなさなければならない。予算やスタッフの数、寄せられる期待、映画やドラマ、CMなどのタイアップ、気づけばORANGE RANGEに関わるすべてが大きくなりすぎていた。好きなことを自由にやる、そんな姿勢にも変化を求められた。
「タイアップだと、『こういう曲を作って』と言われます。作品に合わせて『泣ける曲を作って』と言われることもある。もちろんそういった要望も聞きつつ、でも自分たちのやりたいことも通さないといけない。『花』とかは、そういう感じで学びながら生まれた曲です」(RYO)
ひとつひとつのことに向き合いつつも、楽曲作りだけではなく、バンド方針すらも5人だけですべてを決めることは難しくなっていた。
「当時、『もっとグローバルに発信したい』と思っていました。そのためにYouTubeで楽曲を公開したかったんですが、今のような時代ではなかったのでなかなか難しかったですね」(YAMATO)
自分たちのことなのに、周りの大人たちがあらゆることを決めていく。しかしその状況を、YAMATOは「僕たちの若さや甘さから生まれた状況でもあった」と振り返る。何もかもが目まぐるしく変わる日々の中で、目の前にあるものを消化することに必死になっていた彼らは、自分たちを見失いかけていた。
原点回帰、タイアップはなくなったけどライブは増えた
結成から19年。実はORANGE RANGE、どんなに多忙な時期でも“全員で上京”をしたことはない。生まれ育った沖縄を拠点としている。
「自分たちで2010年にレーベルを設立して、最初の3〜4年はやっぱり忙しかったので、バンドを代表して東京に住んでいた時期もありました。音楽制作だけじゃなくて、会社というものの状態を整えるのには3年くらいはかかるものだなって思っていたんですけど。それが落ち着いてきて、『あれ?東京にいる必要ある?』ってなってきて戻ってきたんです」(NAOTO)
沖縄県那覇市から車で50分、沖縄市の“コザ”。アメリカと沖縄のカルチャーが入り交じり、ライブハウスも多く、沖縄のローカルカルチャーを体感できる。そんな小さな街で5人は育った。商店街の店主たちとは顔なじみで「飲みに行けば知り合いやメンバーにしょっちゅう会いますよ。というかメンバーと飲みに行くことが多いんです」とNAOTOは笑顔で語る。
5人が選んだのは、原点回帰の道だった。2010年7月に、自主レーベル『SUPER ((ECHO)) LABEL』を立ち上げた。曲を作り、ライブをする、シンプルな目的のためだった。大手レコード会社を離れたことにより、メディア露出やタイアップ曲のリリースなどは減ったが、夏は各地の大型フェスにも出演し続け、コンスタントにライブツアーを重ねる活動スタイルを守り続ける道を選んだ。
自主レーベルを立ち上げてからこの10年間で行ったライブは500本以上にのぼり、14年には韓国、台湾、香港でのアジアツアーも成功させ、16年から17年にかけて47都道府県すべてに出向いて自分たちの曲を地道に届け続けた。自分たちの足で、喜んでくれる人たちのための音楽を届ける。自主レーベルを立ち上げてから着実に、ORANGE RANGEは「自分たちのやりたいこと」に邁進してきた。
「喜んでもらえるものこそが正義」上海ハニーは”黒歴史”じゃなく鉄板曲に
今、ORANGE RANGEの5人は、喜んでくれる人たちのために音楽を届けている。だが、彼らの音楽を以前のようにテレビや雑誌、CMなどで楽しみたい人も多いだろう。今後もう、テレビの歌番組などに出ることはないのだろうか。それぞれの胸に去来する思いはあるようだ。
「メディア露出は、会社同士がずっと築いてきた関係性があるからこそ成り立っているところもありますよね。僕らは、自主レーベルを始めると同時に大きな組織を抜けたので、メジャーの仕組みでこそ成り立っていたものを自分たちで継続するのは難しい。以前はそういったことを僕らのためにやってくれていた人たちがいましたが、昔も今も僕らはあくまで音楽を鳴らす立場でしかない。そこは変わっていないんです」(YOH)
「テレビの歌番組だと1曲しかできないので観ている人にはその印象だけがついてしまうんです。でもライブではいろんな曲を演奏しているので、他の曲とのバランスからでとらえたら『ああなるほど、ORANGE RANGEってこんなバンドなんだ』みたいに思ってもらえる。だから歌番組よりもライブで今の僕たちを知ってほしいんです」(RYO)
「あえてテレビ番組に出ないということもなくて。呼んでいただけたら出ることもあって。でも一番はやっぱり自分たちでライブをして、待ってくれている人たちに届けること。これだけは、この先も一番大切にしてきたいんです」(YAMATO)
ORANGE RANGEはもう『上海ハニー』や『花』など、過去のヒット曲は歌わないのか。5人に聞くと、「めっちゃ歌います(笑)、それが一番お客さんが盛り上がるから」とかえってきた。
彼らにとって「喜んでもらえるものこそ正義」という気持ちは変わらない。ORANGE RANGEは昔も今も、目の前で喜んでくれる人たちと一緒に音楽をやっていく。それが最優先なだけだ。
ORANGE RANGE(オレンジレンジ)
沖縄出身・在住の5人組ロックバンド。2001年に結成し、2003年にメジャーデビュー。2021年に迎えるバンド結成20周年イヤーを目前に控え、現在「原点回帰」「初期衝動」をテーマに、バンドスタイルでのミニマルな編成とサウンドにフォーカスした全国50公演に渡るツアーを開催中。同時にCD2枚組全9曲を収録したライブ会場・数量限定の最新アルバム『NAKED×REFINISHED -3 mics and back sounds-』をリリース。