“飲み会スルー”“ブランド離れ”“SNS断捨離”……昨今、若者の「蛭子化」が進んでいるのではないか――。蛭子能収は昭和から平成、令和へと時代が変遷しても、常に己を貫き通してきた。かつては理解されなかった生き方に、いま追い風が吹いている。自分の気持ちに正直に生きてきた男が、本音で語った。(文:岡野誠/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース 特集編集部)
飲み会がなくなってくれると助かる
蛭子はプライベートで人と接することを嫌い、飲み会や打ち上げにも可能な限り行かない。昨年末、忘年会などの飲み会に行きたくない若者たちのトレンドになった“#忘年会スルー”をはるか昔から実践していた。
「仕方なく参加する時は、ずっと隅っこのほうに立って、1人でビールを飲んだフリをする。時が経つのを、ただただ待っています。忘年会などの飲み会はなくなってくれると助かりますね」
他人から不幸に見えるくらいでちょうどいい
ブランド品にも興味を示さない。高度経済成長やバブル景気に沸いた昭和を生き抜いた世代にとって、高級な車や時計の所有は一つのステータスだった。しかし、蛭子は39年前に当時勤務していた清掃会社の退職祝いで同僚からプレゼントされた腕時計を今も身につけている。
「これをもらう前は、人に時間を聞いていました。黒い革のバンドは平和島競艇場近くのドン・キホーテで何回か替えましたけど、中身は同じです。時計に数百万も使う人がいるの?ええっ。そんなの巻いていたら、襲われそうだけどね。時計は時間がわかればいいですよ。車も値段の安いものばかり買っています」
自分の価値観を大事にする蛭子は、芸能人がこぞって手を出すSNSへの投稿回数も少ない。フェイスブックやインスタグラムで共感を求める風潮にも疑問を呈する。
「SNS? 仕組みをよくわかっていないし、全く操作できないんですよ。家族やマネージャーに任せています。雑誌で悩み相談をした時、『いいね!』の数を気にする人が多くてビックリしましたね。高級レストランでの写真にたくさんの反応があっても、それは嫉妬の裏返しじゃないですか。やっかみほど怖いものはないし、他人から不幸に見えるくらいでちょうどいいんですよ」
全員が俺みたいになったら困る
“飲み会スルー”“ブランド離れ”“SNS断捨離”……考えてみれば、昨今の若者の行動は蛭子に似てきている。
「ははっは。そうか……。でも、全員が俺みたいになったら困る。きちんとしている人も必要ですよ。どんな行動を取るにしても全て、その人の自由だと思います。飲み会も行きたい人は行く、そうじゃない人は断ればいい。でも、『行っといたほうがいいかな……』って遠慮するからね。最近は、1人が行くと、みんなが同じ行動を取るようになる気がする。極端に傾きがちですよね。どっちかに偏るんじゃなくて、本当の意味で個人の意思が尊重されるようになればいいんじゃないかな」
「ギャンブルは二度とやらない! 賭けてもいい」
2019年12月25日、『太川蛭子の旅バラ』が終了した。07年に始まった『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』(ともにテレビ東京系)以来、12年間も苦楽をともにしたパートナーの太川陽介と会う機会もなくなる。寂しさが募るのではないか。「そうですね……。別に、それは……(笑)」。ニコニコと笑い飛ばすあたり、いつもどおりの蛭子である。
蛭子には、数多くの伝説がある。
「競艇必勝法を編み出した」という理由で消費者金融に融資を求めたが、妻に保証人を断られて実現しなかった……。税務署に舟券を経費として提出したが、認められなかった。父親の葬儀の直後、兄とともにパチンコ屋に行こうとしたら、義理の弟に叱られた……。賭けマージャンで逮捕された際には「ギャンブルは二度とやらない!賭けてもいい」とぽろり――。
普通なら、たとえ実行したとしてもイメージを気にして話自体を封印するはずだ。なぜ、蛭子は自分の気持ちに正直に生きながら、取り繕うことなく語れてしまうのか。
「ズルいところもありますけどね。競艇で勝ったのに、負けたと言ったりとか(笑)。まあ、正直なほうだとは思います。みんな、人からどう見られるかをすごく気にしているし、恥かくことを極端に恐れていますよね。何かを隠そうとして嘘をつくと、バレたときにもっと恥ずかしくなる。俺にも自分をよく見せたい気持ちは多少あるんですけど、それは難しいですよ」
下手に嘘をついて、取り繕うと、後にもっと苦しくなる。当たり前とも思える言葉だが、不思議と説得力を持つ。昨今の芸能界を取り巻くスキャンダルがオーバーラップする。
恥を怖がらない蛭子にとって、人生で最も恥ずかしかったことは何か。
「あごが外れたことですね。立ち食いそば屋で『デカいなり』を一口で食べようとしたら、ガクンとなってしまって……。全然しゃべれなくなるんですよ。恥ずかしくて、顔も上げられなかった。10分くらい経って、ようやくハメられました。俺のことをずっと見ている人がいましたね。『すみません、あごが外れたんですよ』と説明したのに、何の反応もしてくれなかったんですよ(笑)。本当に恥ずかしかった。その時はつらかったけど、話のネタにはよいなと思いました」
「理想のお父さん」だった時代も
戦後まもない1947年生まれの蛭子は長崎商業高校を卒業後、地元の看板屋に就職。22歳の時に全財産4万円で上京し、73年に雑誌『ガロ』で漫画家としてデビュー。ちり紙交換や清掃会社の営業マンなどをしながら、独り立ちのチャンスをうかがった。
過激で不条理な作風が徐々に評価され、81年から漫画家に専念。その後、柄本明主宰の劇団東京乾電池の舞台出演をきっかけに、87年に『笑っていいとも!』(フジテレビ系)で初めてテレビに登場。90年には『いつも誰かに恋してるッ』(同系)で宮沢りえの父親役を演じ、雑誌の『理想のお父さん』調査で1位に輝くなど高い好感度を誇った時期もある。
しかし、90年代中盤になると、『スーパーJOCKEY』(日本テレビ系)でダチョウ倶楽部や松村邦洋と同じように裸で熱湯風呂に入り、イメージが急変。01年1月のネットアンケートでは「日本は神の国」「イット革命」などの失言で支持率10%台に落ち込んでいた森喜朗首相(当時)を2位に抑えて、「許せないオヤジ」で1位になった。テレビからの印象で安易に判断する世論をどう感じていたのか。
「やっぱり、よく書かれたほうが嬉しいです(笑)。でも、そこまで気にしないですね。人の考え方を変えるなんて、無理ですから。日本は何を言っても自由。それが守られていて、よい国だなと思います」
やっぱり競艇で当てたい……
自由奔放に見えて、律義な面もある。太川陽介のライブにはチケットを自腹で購入して訪れた。ファンからの年賀状にも返事を出す。厳粛な雰囲気が苦手なため、葬儀には出席しないと伝えられているが、最初にテレビ出演のオファーをしてくれた横澤彪氏(元フジテレビプロデューサー)の通夜、映画で共演した長門裕之の告別式などには参列した。
「太川さんのライブは見ておかないとマズいかなと思って。まあ、場所が事務所から近かったですし。年賀状は全て返すわけではないですけどね。送るのは、だいたい6月くらいですよ。面倒くさくて(笑)。でも、もらうと嬉しいですからね。葬式に出ると、笑ってしまう癖があるんですけど、その時は大丈夫でしたね」
傍若無人なイメージとは異なり、ディレクターの指示には素直に従う。漫画の締め切りは必ず守る。かつて、テレビ局でプロデューサーや冠番組を持つ大御所に擦り寄っていくタレントを目の当たりにした際には、「向こうから『アイツ面白いなあ』と近づいてもらえる人間にならないとダメですよ」と本質的な指摘をした。仕事に対して真摯に取り組み、付和雷同しない姿勢を貫いてきたからこそ、生存競争の激しい芸能界で30年以上も一線にい続けているのだ。最後に、今後の夢を尋ねた。
「とにかく競艇で当てたいですね。『バス旅』は体力的に厳しくてやめたけど、ゆるい感じの旅番組のオファーがきたらまたやりますよ。でも、太川さん、怒ると怖いんだよな(笑)」
蛭子能収(えびす・よしかず)
1947年10月21日生まれ。長崎県出身。70年代後半、自動販売機専門雑誌の連載をきっかけに漫画家として頭角を現す。86年、劇団東京乾電池公演『台所の灯』に初参加。89年、『教師びんびん物語Ⅱ』(フジテレビ系)でドラマデビューを果たし、以降タレントとしても人気を誇る。新刊『死にたくない 一億総終活時代の人生観』(角川新書)発売中。