藩の徴収改革とそれに対する反発、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
派手な生活をしていた藩主
1736年、郡上藩主・金森頼旹の死去に伴い、孫である金森頼錦が23歳で藩主となりました。
頼錦は文化的素養が高く、絵画や詩歌に優れ、時の将軍徳川吉宗から天文観測を命じられるほど学問にも造詣が深い人物だったのです。
その後、頼錦は1747年に奏者番に任命され、将軍の近くで重要な役割を果たす立場となり、将来を期待されました。
しかし、奏者番の職務には多くの費用がかかり、頼錦の生活はますます派手になり、藩の財政は逼迫していったのです。
郡上藩は元々財政基盤が弱く、頼錦の奢侈な生活や奏者番としての交際費が重くのしかかり、藩の財政難は深刻化しました。
さらに宝暦期には米価が下落し、頼錦は節約策を講じたものの、藩士の俸禄を削るなどの限られた対策に留ったのです。
結局、頼錦が採用した主要な解決策は増税でした。藩主となった年から御用金を徴収し、領民に負担を強いたのです。
また、生糸や通行税、贈り物にまで課税し、重税を次々と課していきました。
その上、税金の徴収だけでなく、藩の工事や馬の徴用などの使役も重なり、郡上藩の領民は厳しい状況に追い込まれました。
頼錦は年貢の取り立て方も変更し、年貢増徴を図りましたが、財政の改善は見られず、郡上藩は苦しい財政運営を続けることとなったのです。
藩の徴収改革とそれに対する反発
郡上藩は財政難に直面し、藩主・金森頼錦は年貢を増徴するため、徴収方法を見直すことを計画しました。
これまでの定免法から実際の収穫に基づく「有毛検見法」への変更が検討され、新たに開発された田畑に対する課税も計画されたのです。
藩主は幕府老中や勘定奉行との縁戚関係を活かし、年貢改正の許可を得ることに成功します。
1753年には、幕府勘定奉行・大橋親義の推薦で検地の専門家である黒崎佐一右衛門を新たに召し抱え、郡上領内の田畑調査が始まりました。
この調査は厳格に行われ、1754年には各村に対して田畑の詳細な報告を求め、黒崎が実地検分を進めていきます。
しかし、この徹底した調査は領民に不安を与え、重い負担に対する不満が高まったのです。
7月には、小駄良口の庄屋たちが負担の軽減を嘆願し、さらに郡上領内の多くの庄屋や農民が集まり、黒崎の調査に対して抗議活動を開始しました。
農民たちはこれまでの先例通りに年貢を徴収するよう強く要望し、嘆願書を提出したのです。
このような大規模な抗議行動により、郡上藩の年貢改正に対する反発が強まり、農民たちは迅速に抗議体制を整えることができました。
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