遂に動いた将軍、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
遂に動いた将軍
郡上一揆の審理が停滞していた中、将軍徳川家重が抱いた疑念が大きな転機をもたらしました。
家重は郡上一揆やその関連事件である石徹白騒動の背後に、幕府要人の不正関与があるのではないかと疑いを持つようになります。
特に、一揆の発端である年貢徴収法改正に、幕府勘定奉行の大橋親義らが介入していたことが既に問題視されており、家重の疑念が事態を動かしました。
1758年には郡上一揆と石徹白騒動での箱訴が相次ぎ受理されましたが、これに加えて幕府内の不正関与が明らかになったことで、将軍の疑念は確信に変わり、評定所による徹底した吟味が指示されたのです。
老中酒井忠寄をはじめとする幕府の高官たちが調査を命じられ、これまでにない大規模な体制での裁判、いわゆる「五手掛」の形式で進められました。
五手掛は江戸時代において百姓一揆に対して採られた最も大規模な審理体制で、特に郡上一揆の事例が唯一のものであったのです。
この審理では、特に大橋親義や美濃郡代の青木次郎九郎ら幕府高官の関与が焦点となり、事実が次々に明らかにされていきました。
郡上藩の年貢徴収法改正への介入は、寺社奉行本多忠央の働きかけによって、勘定奉行の大橋親義から美濃郡代に命じられたものだと判明します。
結果、大橋は処罰され、その他の関係者も次々と尋問されました。
特に家重は、この一連の問題を迅速に解決するため、御用取次の田沼意次を評定所の審理に加えさせました。
田沼は将軍の信頼が厚く、彼の介入によって事件の処理が円滑に進むことが期待されたのです。
また、この事件には寺社奉行や勘定奉行のみならず、老中本多正珍や大目付曲淵英元といった幕府高官も関与していることが次第に明らかになり、幕府全体の信頼が揺らぐ大問題へと発展していったのです。
結局、この一揆事件は単なる百姓一揆の裁判にとどまらず、幕府内部の腐敗を暴き出し、幕政に大きな影響を与えることとなりました。