一揆勢・藩役人ともに下った厳しい判決、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
一揆勢・藩役人ともに下った厳しい判決
1758年12月12日、郡上一揆と石徹白騒動に関する判決がほぼ固まり、12月15日には正式に申渡書が作成されました。
判決は老中や側用取次、御詮議懸りが列席する中、12月25日夕方から翌日早朝にかけて行われたのです。
この中で、農民たちの主張は退けられ、郡上藩の年貢徴収法改定に反発して起こした一揆や駕籠訴が厳しく断罪されました。
農民たちは、課税強化を恐れ、領主の指示に逆らって行動を起こしたことが問題視され、一揆勢の行動全般が取り調べられたのです。
特に、一揆の頭取とされた切立村喜四郎や前谷村定次郎ら4名は獄門となり、その他10名の一揆勢も死罪が言い渡されました。
彼らは腰に「獄門」や「打首」と書かれた札を付けられ、次々と処刑されたのです。
また、一揆勢には遠島1名、重追放6名、所払い33名など、多くの者が処罰を受けました。
一方、郡上藩主の金森頼錦は、幕府要人に年貢徴収法改正への介入を求めたことが断罪され、加えて気良村甚助の違法な処刑や石徹白騒動の処理についての不手際が問題視されたのです。
最終的に金森家は改易され、金森頼錦は盛岡藩への永預け処分となり、死去するまで監禁生活を送ることとなりました。
郡上藩役人に対しても処分が下されたものの、石徹白騒動に関与した家老2名が遠島となった一方で、その他の役人の処罰は比較的軽かったのです。
この違いは、郡上一揆が郡上藩全体を巻き込み大規模な騒動となった一方で、石徹白騒動が郡上藩役人と神主の癒着による事件だったため、責任追及がより容易だったためと考えられます。