追い詰められた一揆勢、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
追い詰められた一揆勢
1757年、郡上一揆の首謀者の一人である気良村甚助は、藩に捕らえられ全く吟味されることなく処刑されました。
彼は郡上藩による弾圧の象徴的存在であり、その突然の打ち首は、藩側の強硬な姿勢を示すものです。
処刑は1758年1月27日に穀見の刑場で秘密裏に行われましたが、これは上之保筋の駕籠訴人たちが藩の呼び出しに応じなかったことへの報復だとする説があります。
甚助の処刑は違法であり、罪状も明らかにされないままでした。
この不正に対し、一揆勢は強く抗議しましたが、藩側は「甚助の罪はお前たちが知っている」と一蹴したのです。
この事件は後に幕府評定所での審議において、郡上藩主・金森頼錦が改易される原因の一つとなります。
さらに、一揆勢は駕籠訴の追訴を試みましたが、江戸町奉行所に訴えを却下され、農民たちは次第に追い詰められていきました。
最終的には追訴に関わった者たちも処罰され、一揆勢の苦闘は幕を閉じたのです。