箱訴決行、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
箱訴決行
1754年に郡上藩で始まった一揆は、藩主による厳しい年貢徴収に対する農民の反発が引き金となりました。
最初は藩内での争いでしたが、幕府の代官が介入し、江戸藩邸への訴えや藩主の弟である井上家への訴えを試みたのです。
しかし、藩の弾圧は厳しく、農民たちは1755年には幕府の老中酒井忠寄に対して駕籠訴を行いました。
この訴えは受理されたものの、判決は出されず、2年以上が経過していたのです。
駕籠訴が進まない中、農民たちは再度の追訴を試みましたが、再び訴えは受け入れられず、最終的には目安箱に訴状を投函する「箱訴」を決行しました。
1758年4月2日、6人の代表が江戸の目安箱に訴状を投函し、郡上藩主の不当な弾圧や歩岐島騒動での負傷者のリストを添えて、再審と公正な裁判を求めたのです。
その後、4月11日には2度目の箱訴が行われ、町奉行に訴えが受理されることになります。
箱訴が受理され、幕府の評定所での吟味が開始されましたが、農民たちは深刻な資金不足に直面していました。
凶作や長引く裁判の影響で、郡上の農民は疲弊し、資金集めが難航します。
さらに、裁判を支える人員も不足していたのです。郡上藩内でも一揆勢に対する不満が高まり、一部の村は一揆から離脱する事態となっていました。
資金難と人員不足が続く中、農民たちは困窮する状況下で、借金の取り立てを行わざるを得なくなり、事態は一層深刻化していったのです。
箱訴が受理されたことは一揆勢にとって一つの勝利でした。
しかし実際の裁判が進む中で、一揆勢は資金や支持の減少など、さまざまな困難に直面し、その未来は不透明な状況に陥っていったのです。