厳しい郡上藩役人と農民への取り調べ、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
厳しい郡上藩役人と農民への取り調べ
郡上一揆に関連する吟味は、幕府役人に続いて郡上藩役人や農民に対して行われました。
1758年7月から、江戸に召集された郡上藩の役人や農民は309人に達し、その中には駕籠訴の中心人物である切立村喜四郎や前谷村定次郎が含まれていたのです。
彼らは厳しい尋問を受け、最終的に入牢することとなります。
吟味は、駕籠訴人や農民たちに対して非常に厳しく行われ、一揆の組織や首謀者についての詳細が追及されました。
拷問も用いられたものの、農民たちは容易に口を割らず、長期にわたる尋問が続いたのです。
結果、11月には一揆の指導者が特定され、切立村喜四郎ら16名の農民が牢死するに至りました。
彼らの遺体は取り捨て扱いとなり、その悲惨な結末が明らかになったのです。
一方、郡上藩の藩主である金森頼錦への尋問も進められ、年貢徴収法改正や違法な処刑に関する責任が追及されました。
金森は松平遠江守に預けられ、藩士たちも次々と江戸に呼び出される中、治安維持のために郡上への出兵が命じられたのです。
この厳しい尋問は評定所御詮議懸りにも大きな負担をかけ、勘定奉行菅沼定秀が体調を崩し、最終的には死去する事態となりました。
一揆の裁判は厳しさを増し、12月には「公儀を恐れず」との発言が飛び出し、さらなる取り調べが命じられることとなったのです。