決死の駕籠訴、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
決死の駕籠訴
1755年、一揆勢の農民たちは郡上藩の厳しい弾圧に直面し、窮地に追い込まれていました。
江戸に向かって訴えを試みた農民代表らが藩に拘束されるなど、状況は悪化の一途をたどります。
そんな中、農民たちは藩への訴えではなく、幕府に直接裁きを仰ぐ「越訴」を決断しました。
一揆勢のリーダーである東気良村の善右衛門、切立村の喜四郎を中心に、前谷村の定次郎、那比村の藤吉らが願主として選ばれました。
彼らは他の農民とともに江戸へ向かい、駕籠訴を決行する準備を進めます。
そして、1755年12月28日、老中酒井忠寄が江戸城へ登城する際、農民たちは駕籠に駆け寄り、訴状を手渡しました。
この行動は「駕籠訴」として知られるようになり、幕府要人に直接訴えるこの手法が一揆の重要な戦術となっていきます。
この時、酒井忠寄は農民たちの訴えを受理し、宿での休息を促し、翌日事情聴取が行われました。
駕籠訴の実行者の中には、土地を持たない水呑百姓の高原村弁次郎も含まれていましたが、彼は正式な訴人とは認められず、後に罪を免れることになりました。
それでも弁次郎は一揆の活動に貢献し、江戸との連絡役として重要な役割を果たしたのです。
駕籠訴は江戸時代を通じて一揆勢の象徴的な行動となり、その後も多くの騒動や訴訟で採用される手法となりました。
この事件は、郡上一揆における農民たちの強い意志と、その行動が歴史に与えた影響を示すものとして記録されています。