くすぶる火種、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
再燃する一揆
1755年7月21日に笠松陣屋で強制された検見法の受け入れをきっかけに、郡上一揆は再び過熱しました。
母野では、郡上藩からの年貢徴収を阻止しようと、多くの農民が集まり、特に過激な行動に走る者も現れたのです。
反抗は激化し、一部の農民は検見法の絶対拒否を掲げましたが、意見の対立も表面化していきました。
江戸に出訴した農民代表の中でも、検見法を完全に拒否する切立村喜四郎派と、条件付きで受け入れるべきだと主張する歩岐島増右衛門派に分かれ、内部対立が生じました。
最終的に、喜四郎らのグループが一揆の主流派となり、運動を主導していくことになりますが、増右衛門らは次第に一揆に反対する立場に転じたのです。
一方、郡上藩側は圧力を強め、宗門改めを実施するために庄屋たちの帰還を求めましたが、農民たちはこれを阻止し続けました。
10月に入ると、寺社奉行や庄屋たちが説得に乗り出すも、3,000~6,000人に及ぶ農民が帰還を拒んだのです。
しかし、徐々に宗門改めの必要性が認識され、2ヵ月半にわたる庄屋帰還阻止運動は終息しました。
その後、農民たちは郡上藩の圧力から逃れるために、関(現関市)の新長谷寺近くに「関寄合所」という新たな拠点を設けました。
ここは交通の要所であり、郡上や江戸とアクセスが良く、一揆の活動拠点として利用されたのです。
この関寄合所は、郡上一揆が終結する1758年まで、農民たちにとって避難所として、また情報の集約と発信の場として重要な役割を果たしました。