江戸の町人も話題にした、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
江戸の町民たちの反応
郡上一揆の裁判が進行する中、江戸町民の間で事件に対する関心が高まっていきました。
町民たちは失脚した幕府高官や金森家を揶揄する川柳や狂歌を盛んに作り、事件は「金森騒動」と呼ばれるようになったのです。
特に注目を集めたのが、講釈師の馬場文耕による講談でした。
馬場文耕は、もともと徳川吉宗の善政を称える講談で知られていたものの、1758年頃から社会や政治を批判する内容を取り入れるようになったのです。
彼は郡上一揆の裁判を題材にした講談「武徳太平記、珍説もりの雫」を発表し、金森家の乱脈な支配や幕府高官との癒着を鋭く批判しました。
馬場は一揆関係者の農民からも取材を行い、裁判の内幕を講談に取り入れたと言われています。
この講談は江戸で大きな話題を呼び、超満員の聴衆を集めました。
しかし、馬場は幕府への批判を止めなかったため、講談終了後に南町奉行所の同心に逮捕されたのです。
取り調べ中も批判を緩めることなく、幕府の裁判制度を糾弾し続けた結果、遠島相当の罪状にもかかわらず、厳罰として打首獄門が言い渡されました。
この事件は、従来の「悪代官が明君によって倒される」という典型的な一揆物の筋書きとは一線を画しており、当時の幕府支配の綻びや、政治的行き詰まりを象徴する出来事といえます。