高まる弾圧、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
高まる弾圧
1755年の郡上一揆では、農民たちが江戸に出訴してからも事態は好転せず、彼らの消息が途絶えていたため、新たな訴えを行う必要が生じました。
10月下旬、剣村藤次郎と栃洞村清兵衛が江戸に派遣され、豊島町の森田屋藤右衛門宅を拠点としたのです。
彼らは早速、40名の農民代表が郡上藩に監禁されていると判断し、医師で公事師の島村良仙の協力を得て新たに訴状を作成します。
藩主金森頼錦の弟である井上遠江守邸に訴えを提出しました。
11月初頭、郡上藩側はこれに反発し、剣村と栃洞村の2名を捕えるため足軽を差し向けましたが、機転を利かせてその場を乗り切りました。
その後、2人は協議し、1人が江戸に残り、もう1人が郡上に戻って状況を伝えることになります。
最終的に栃洞村清兵衛が江戸に残り、剣村藤次郎が郡上に戻ることになりました。
しかし、清兵衛はまもなく郡上藩に捕らえられ、金森藩邸に監禁され、取調べもないまま牢死したのです。
一方、郡上では庄屋たちが戻った10月末から藩による一揆の弾圧が強化されました。
用人の宮部半左衛門が中心となり、一揆勢の首謀者たちを次々に捕縛します。11月には約200名の農民が逃亡を余儀なくされ、弾圧が続く中、一揆勢は数百人にまで減少しました。
藩側は年貢の取立てを強行し、一揆参加者の間では「立者」と「寝者」という対立が生じることになったのです。
また、同時期には郡上藩の預り地であった石徹白での騒動も発生します。
500人以上が追放されるなどの混乱が続き、この処分は郡上一揆への見せしめともされました。