暴動の導火線に火が付いた、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
暴動の伏線
1757年、郡上藩内では一揆勢の活動が激化し、その中心人物の一人である新町太平治が藩役人により投獄されました。
彼は一揆勢に肩入れしていたため、些細な罪で捕らえられたとされていますが、これが引き金となり一揆勢の農民たちは反発を強めます。
同年10月、一揆勢は600人以上を動員し、町名主の原茂十郎宅に押し寄せ、太平治の赦免を求めました。
しかし、原茂十郎はこれを拒否し、農民たちは暴徒化。原茂十郎の家を荒らし回ったのです。
この騒動により藩側も動き出し、数十名の足軽や小頭が現場に駆けつけ、農民たちを説得して一旦は収束します。
しかし、引き上げる途中で小競り合いが発生し、緊張が再び高まりましたが、大事には至らず、一触即発の状況は回避されました。
この事件をきっかけに、反一揆勢の「寝者」たちは勢力を強め、一揆勢をさらに抑え込もうとする動きが強まっていきます。
同年11月、江戸から戻った藩の用人大野舎人は、一揆勢を鎮圧するために村役人たちを次々と呼び出し、厳しい対応を行いました。
しかし、上之保筋の一揆勢が強固な自治状態にあったため、藩の統制が及ばず、その動きは次第に失速していきます。
大野舎人は一揆勢と村役人を対立させようと画策しますが、この試みも失敗に終わり、事態は一層混迷を深めていきました。