広がる波紋、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
広がる波紋
1755年に発生した郡上一揆では、農民たちが幕府に直訴するという「駕籠訴」を決行し、幕府に年貢徴収法の見直しを訴えました。
駕籠訴は、藩の年貢徴収法に不満を持つ農民たちが幕府に直接裁きを求める手段であり、幕府要人の駕籠に直接訴えることで訴状を受理させるものです。
1756年1月、駕籠訴の願主たちは町奉行依田政次に呼び出され、吟味が行われることとなります。
彼らが提出した訴状には、郡上藩の年貢徴収法に対する不満が記されており、訴訟の焦点となりました。
また、この訴状には三家老の免許状が含まれており、これは一揆勢が藩側から奪ったものであったのです。
駕籠訴の実行により、郡上一揆は一時的に反転攻勢に出ることができました。
藩側は厳しい取り調べを行いつつも、農民たちとの妥協策を検討するに至ったのです。
一方で、駕籠訴を決行した農民代表たちは資金不足に悩まされ、江戸から郡上への帰還にはさらなる資金が必要となりました。
農民たちは資金調達に奔走し、一揆勢の結束を強めていったのです。
駕籠訴が受理された結果、郡上藩に監禁されていた40名の農民代表が釈放されました。
しかし、藩側は妥協案として、これまでの年貢徴収法である定免法に税率を2分5厘増しするという提案を農民たちに持ちかけたのです。
江戸にいた一揆のリーダーはこの提案を村方三役に伝えたものの、農民たちはこの提案を疑い、受け入れることを拒否しました。
最終的に藩側の提案は農民たちに受け入れられることはなく、藩と農民たちの対立は続くこととなったのです。
この一連の騒動は、駕籠訴という方法が一揆の中で有効に機能し、農民たちの権利を主張する手段として広く認知されるきっかけとなった事件でした。
駕籠訴は、その後の一揆や騒動においても頻繁に用いられるようになり、農民たちの声を幕府に届ける重要な手段となっていったのです。