激動の時代を象徴した、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
その後の郡上
郡上一揆後の郡上の情勢は、激動の時代を象徴するものとして多くの物語を生み出しました。
一揆に加わった農民たちの中でも、特に獄門に処された者たちの運命は、歴史の中で語り継がれています。
1759年、一揆を主導した農民のうち、前谷村の定次郎、歩岐島村の四郎左衛門、寒水村の由蔵の三名が穀見刑場で獄門に処されました。
彼らは親族に見守られながら処刑され、親族たちはその場で「本懐を遂げた」と大胆に喜びの声を上げたという逸話が残っています。
一揆の鎮圧後、裁判により死罪や追放を言い渡された農民たちの土地や家屋は競売にかけられました。
しかし、この競売には同じ村の住人だけが参加を許され、他村の者や寝者(密告者)は排除されたのです。
この措置により、処罰を受けた者の家族や村人たちは多少の安堵を得ました。
また、競売後も村人たちは密告者や裏切り者に対する不信感が募り、村内には対立が深まったのです。
一揆の指導者の中でも、大間見村の田代三郎左衛門は特に用心深く行動し、最終的に追放刑のみを受けるにとどまりました。
彼は判決を受けた後、一揆勢の資金を精算し、事態の収拾に奔走したのです。
一方で、一揆を巡る混乱は、藩主金森家にも大きな影響を与えました。1759年末、金森頼錦は改易され、金森家はお家断絶の憂き目に遭ったのです。
江戸にあった金森家の別邸や施設も召し上げられ、郡上藩士たちは浪人となりました。
こうして数百名に上る「金森浪人」が発生し、一部は新たな藩主である青山家に仕えたものの多くは他国に流れたり、町人として生計を立てたりすることを余儀なくされたのです。
1759年には、青山幸道が新たな郡上藩主として転封されました。
彼の統治が始まると、幕府は切添田畑(不正に隠された田畑)の調査を命じ、全体で333石あまりが見つかったのです。
また、一揆の主要な闘争目標であった年貢制度「検見法」は正式に採用され、農民たちには倹約を命じるなどの厳しい政策が敷かれました。
しかし、青山氏は一揆後の混乱を鎮めるため、盆踊りを奨励し、郡上おどりがこの時期に起源を持つという説もあります。
一揆後、農民たちは犠牲者の供養を続け、1764年には七回忌が行われました。
その後も一揆参加者を顕彰する動きは明治以降まで続き、現在では郡上市内に「宝暦義民碑」や「郡上義民碑」といった記念碑が数多く建てられています。
一揆は後世の文化にも影響を与えました。
1964年、岐阜の劇団はぐるまのこばやしひろしが戯曲『郡上の立百姓』を製作し、翌年の訪中公演でも高く評価されたのです。
この戯曲をもとに映画監督の神山征二郎が制作した映画『郡上一揆』は、2000年に公開され、一揆の歴史的意義を広く伝える作品となりました。
郡上一揆後の郡上は、農民たちの抵抗と藩の統治がせめぎ合う中で、その後の時代へと繋がる変革の地となったのです。
一揆で犠牲となった者たちの記憶は、今なお郡上の地に息づいています。