歩岐島での攻防、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
歩岐島での攻防
郡上一揆の重要な局面として知られる「歩岐島騒動」は、1758年に郡上藩と農民勢力との間で激しく衝突した事件です。
当時、藩側は駕籠訴の主張を覆すため、一揆の指導者たちを分断しようと試みました。
藩の用人である大野舎人は、組織を弱体化させるために一揆勢の資金や帳面を押収しようとし、郡内を徹底的に捜索したのです。
その結果、歩岐島村の四郎左衛門が一揆勢の帳元として中心的な役割を果たしていることが判明しました。
藩側は四郎左衛門を呼び出そうとしましたが応じなかったため、同じ村の久右衛門に命じて彼の家から帳面や金銭を奪取させました。
1758年4月2日、久右衛門や藩の足軽たちは四郎左衛門宅に押し入り、帳面と金銭を持ち出したのです。
しかし、この強行に対して一揆勢は黙っていませんでした。
四郎左衛門は逃げ延び、隣家に匿われましたが、この事件に激怒した一揆勢はすぐに集結し、久右衛門たちを捕らえて四郎左衛門宅に監禁したのです。
その後、郡上郡内の15歳から60歳の男性に集結の呼びかけがなされ、2日後には約3000人もの農民が歩岐島村に集まりました。
この状況を聞いた藩側は足軽を派遣しましたが、圧倒的な数の一揆勢に恐れをなし、事態は緊迫化していったのです。
一揆勢は奪われた帳面や金銭の返還を求め、久右衛門の取り調べを要求します。
藩側は一度はこれを受け入れましたが、翌日さらに足軽を増派し、四郎左衛門を拘束しようとしました。
これに対し、一揆勢は石を集めて投石し、激しい衝突が勃発したのです。
この「歩岐島騒動」は死者こそ出なかったものの、双方に多くの負傷者が出ました。
藩側はこの事態を受けて、一揆勢が江戸に訴えを持ち込むことを警戒し、郡内の村役人たちに騒動の参加者を報告するよう命じたのでした。
一方、一揆勢は「理不尽な仕打ちに納得できない」との書状を藩に送り、さらに大規模な行動を予告しましたが、最終的には一部の指導者たちが郡上を脱出し、藩の追及を逃れました。
特筆すべきは、藩側が奪ったと思っていた帳面が実際には一揆側の手に残っていたことです。
この帳面の隠匿は、一揆勢の戦略の一部であり、今後の訴訟において優位に立つための重要なカードとなりました。
このように、歩岐島騒動は郡上一揆における最も大きな衝突であり、藩と農民の対立が激化した瞬間として歴史に刻まれています。