厳しい処分を受けたが、のちに見事に復活した3人の戦国武将とは?
戦国時代、大幅な減封や改易により厳しい状況に追い込まれたが、のちに見事に復活した戦国武将がいた。そのうち3人を紹介することにしよう。
◎仙石秀久(1552~1614)
秀久は美濃国の出身で、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。秀吉に仕えて以降、秀久は軍功を重ね、淡路国5万石を与えられた。天正13年(1585)の四国征伐に際しても、秀久は大いに軍功を挙げ、恩賞として讃岐国(一部は十河氏が支配)を与えられたのである。
翌年の九州征伐において、秀久は戸次川の戦いで島津氏に敗北を喫した。敗報を耳にした秀吉は激怒し、秀久の所領を取り上げると、高野山に追放した。しかし、天正18年(1590)の小田原征伐の際、秀久は出陣し、戦後、秀吉から信濃国小諸に5万石を与えられ復活したのである。
◎蒲生秀行(1583~1612)
文禄4年(1595)、秀行は父氏郷の死により家督を継いだ。しかし秀行は当主としての力量が不足しており、家臣団統制がうまくいかなかった。慶長3年(1598)、秀吉は秀行の力量を問題視し、宇都宮12万石に移封した。
その2年後に関ヶ原合戦が勃発すると、秀行は東軍に属して宇都宮を守備し、西軍の上杉景勝の牽制にも貢献した。戦後、徳川家康は秀行の働きを高く評価し、会津などに60万石を与えた。もともとの石高より減ったが、かなり挽回したのである。
◎立花宗茂(1569~1642)
慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、筑後柳川を領した宗茂は西軍に味方して戦ったが、敗北により改易となった。戦後、宗茂は牢人生活を送り、各地を転々としていたが、のちに徳川秀忠から陸奥国棚倉に1万石を与えられ、見事に復活した。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発すると、宗茂は徳川方に味方した。元和6年(1620)、宗茂は筑後柳川に10万9000石を与えられ、旧領のほとんどを回復した。関ヶ原合戦後に改易されたが、復活した稀有な例といえよう。