寒村から始まった幕政を揺るがす大騒動、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
寒村に位置していた郡上藩
郡上藩は、現在の岐阜県北部に位置していた小藩で、概ね現在の郡上市を藩域としていました。
この藩は山間部に位置し、農業が厳しい環境であったのです。
郡上藩領内では主に稲作や畑作が行われていましたが、土地の生産力は低く、焼畑によるヒエや粟、大豆、蕎麦の栽培が行われていたものの、その収穫量は限られていました。
さらに、郡上藩は白山などの山々に囲まれ、春は雪解けが遅く、秋には早い霜や雪が降るため、稲作が特に難しく、農民たちの生活は非常に困難であったのです。
これに加え、イノシシやシカ、サルなどの野生動物が頻繁に作物を荒らすことも、農民たちの負担を増していました。
1676年、郡上藩では一石につき三升であった口米(税)が四升に増税され、貧しい農民たちの不満が爆発しました。
この増税は、幼少の藩主遠藤常春の治世に行われたもので、藩内では増税派と反増税派の対立が激化し、藩政が混乱に陥ります。
これがきっかけで郡上一揆が起こり、結果として藩内での争いは妥協的に収束しましたが、農民たちは増税の取り下げを求め続けました。
また、江戸時代中期には郡上でも商品経済が発達し始め、農民たちは養蚕やタバコなどの換金性の高い作物を栽培するようになりました。
しかし、これにより現金収入を得られる農民と、そうでない農民の格差が拡大します。藩はこれらの商品作物にも課税を強化し、農村社会の分化をさらに加速させました。
災難続きの金森家
郡上一揆の時代、郡上藩主を務めていたのは金森頼錦でした。
金森氏は当初飛騨を治めていましたが、1692年に出羽上山に転封され、さらに1697年には郡上藩へと転封されました。
二度の転封により、金森氏の財政は大きく圧迫され、頼錦は財政難の中で家臣を解雇するなどの対策を講じざるを得なかったのです。
それでも財政状況は改善されず、さらに江戸の藩邸が2度にわたる火災で焼失するなど、金森氏の苦難は続きました。
さらに江戸幕府は17世紀初頭の創設時から財政的に健全な状態を保っていました。
当時の収入源は、天領からの年貢収入の他、金銀山の鉱業収入や貿易収入が大きな支えでした。
しかし、17世紀後半になると金銀の産出量が激減し、貿易も制限されるようになり、収入が減少します。
これにより、幕府の財政は天領からの年貢に大きく依存することになりました。
一方、支出は、明暦の大火や5代将軍徳川綱吉による盛んな神社仏閣の建立、物価上昇によって増加し、元禄期には財政赤字に転落したのです。
幕府は貨幣改鋳や新田開発、年貢増徴による対策を試み、特に徳川吉宗の享保の改革期には年貢収入が増加し、1744年には最高の180万石を記録しました。
しかし、この年貢の厳しい取り立ては農民の反発を招き、一揆が頻発します。
また全藩一揆と呼ばれる大規模な蜂起も増えました。
こうした状況下、幕府は一揆の抑制を図る法令を制定しましたが、年貢依存の財政は限界に達し、幕府内では新たな税収源を模索する動きが始まっていたのです。