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【ワインの歴史】縄文人も飲んでいた!日本人とワインの歴史

華盛頓Webライター
credit:pixabay

そもそも我が国の地に、葡萄を醸して得た酒が流れ始めたのは、遥か縄文の昔にまで遡ります。

山梨県の地より出土した有孔鍔付土器なるもの、これをどう解釈するかで学者たちは真っ二つに割れているのです。

かの土器の口を布や獣皮で覆い、紐で密閉して発酵を試みたとする説がある一方で、同じ道具が太鼓として使われた可能性もあるのだといいます。

これを知る者たちはこぞって、「縄文の祖先たちは酒宴の折に、酒を醸しながら打楽器を響かせたのでは」と想像を膨らませるものの、いずれにせよ最古の日本酒が葡萄酒であったかもしれないという一抹のロマンは拭えません。

時は進み、1483年、文明年間に『後法興院記』の中に、関白近衛家が葡萄酒を嗜んだという記述が現れます。

いかにも雅やかな場面で、葡萄酒はその風味を湛えたのでしょう。

一方、江戸時代には豊前小倉藩の藩主・細川忠利がワイン造りを家臣に命じた記録が残っています

黒大豆の酵母を用い、山ぶどうのガラミを醸して得られたその酒は、単なる甘味酒ではなく、れっきとしたワインであったとされます。

しかしこの葡萄酒、禁教令が強まる中で、忠利が熊本へ転封されるのを機に消え去る運命となりました。

時代が文明開化の明治へと変わると、西洋文化を積極的に受け入れた人々が現れ、甲府の山田宥教と詫間憲久の二人が、葡萄酒の醸造に乗り出します

仏教の法印である山田がワイン作りに興味を示したことは、神と酒の奇妙な取り合わせを感じさせるものの、彼らの試みは「大日本山梨葡萄酒会社」の設立へと続き、技術を得るためにフランスへ渡った高野正誠と土屋助次郎の活躍によって、一層発展しました。

二人の洋服姿の写真は今なお甲州市勝沼のシンボルとして残り、その功績を静かに語り継いでいます。

しかし、山梨県以外の地ではフィロキセラという害虫の猛威により葡萄の栽培は壊滅的な打撃を受け、一度はワインの歴史も途絶えそうになりました

だが、この地の農家たちは、彼ら独特の粘り強さで畑を守り抜き、戦後には再び国産ワインの礎を築き上げたのです。

明治から昭和へ、そして戦中の兵器用材料としての副産物時代を経て、甘口の赤玉ポートワインやハチブドー酒といった飲みやすい果実酒が主流となります。

この甘味酒を日本人が「ワイン」として受け入れるのは1970年代頃まで続くが、その影で本来の葡萄酒は「趣味の酒」としてひっそりと愛好されていたのです。

こうして振り返ると、日本のワイン史とは、甘味と酸味のバランスを探し求めながら、縄文から現代へと続く長い旅路であったことがわかります。

時代ごとの人々の嗜好や技術、社会の状況を映し出しながら、その一杯の中に多くの物語を詰め込んでいるのです。

いまだ評価途上とされる国産ワインだが、ここに至るまでの試行錯誤は、まさしく日本人の創意工夫と挑戦の歴史そのものでしょう。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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