藩・農民ともに一進一退の攻防、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
状況の進展
郡上一揆は、農民たちの不満が頂点に達した反乱でした。その中でも注目されるのが、駕籠訴人(かごそにん)と呼ばれる五名の農民が幕府に対して直接訴えた事件です。
彼らは江戸に赴き、郡上藩の過酷な年貢徴収に対する反対の声を上げ、最終的には地元へ帰還することとなりました。
しかし、この帰国は決して穏やかなものではなく、駕籠訴の裁定も不透明なまま放置され、一揆勢はさらなる組織強化と攻勢を強めていきました。
1756年、駕籠訴人5名と村方三役30名が町奉行での吟味を経て、12月には帰国を命じられました。
村方三役代表は自由に郡上へ向かうことができましたが、駕籠訴人たちは藩側の厳重な監視のもと帰国させられたのです。
通常、罪人扱いの者が乗せられる籐丸駕籠に乗せられることもなく、百姓には厳禁されていた帯刀を許されて帰国するという異例の対応が取られたのです。
これは後に一揆の裁判で罪状の一つとして挙げられることになりますが、この時点では、彼らは英雄として迎えられていました。
1757年1月7日、数多の百姓の歓声の中、駕籠訴人たちは郡上へ戻ったのです。
彼らは藩側の指示で村預けの処分を受け、それぞれの村の庄屋の家に軟禁されることとなったのです。
彼らの監視は厳重で、昼夜問わず藩の足軽と村の農民が交代で見張りを続けました。
一揆勢の期待は高まり、駕籠訴が受け入れられるという楽観的な見方が広がりました。
一方で、村方三役代表や藩側は駕籠訴が却下されたと触れ回り、現実的には幕府での吟味は停滞していたのです。
この状況においても、一揆勢の中で上之保筋の急進派は楽観的に活動をエスカレートさせる一方で、他の派閥は冷静に情勢を分析していました。
駕籠訴人の帰国後、一揆の動きはますます勢いを増し、組織化が進みました。
彼らは金森頼錦に対して、年貢徴収法である検見法の廃止と、拘束されていた農民の釈放を求める願書を提出したのです。
藩主はこの要求に応じ、1757年4月には拘束されていた農民たちの釈放が実現しました。
この成功により、一揆勢はさらなる自信をつけ、行動を強化したのです。
また、組織がさらに整備され、各地で資金調達や活動方針が計画的に進められました。
帳元と呼ばれる組織の中核には、歩岐島村の四郎左衛門が選ばれ、一揆の運営を取り仕切ったのです。
実行部隊には寒水村の由蔵や向鷲見村の五郎作など、地元の指導者たちが活躍し、一揆勢全体の活動が統括されていきました。
1757年3月には、一揆勢が必要とする資金の調達が指示されました。
この時、郡内の年貢額の約1割にあたる1160両という大金が上之保筋、明方筋、下川筋に割り当てられたのです。
この動きにより、一揆勢は藩側や寝者(裏切り者)に対して圧力を強め、強引な金集めが行われました。
さらに、郡上八幡城下の町名主たちにも金銭要求が行われましたが、藩の命令に従い、彼らはこれを拒否したのです。
その結果、一揆勢は町方の田畑に押し入り、作物を勝手に収穫するという強硬な手段に出るようになりました。
一揆勢の急進化と攻勢が続く中で、農民たちの間では立者(反藩勢力)への加入が相次ぎました。
特に、村方三役の多くが一揆に加わり、組織的な抵抗運動が拡大したのです。
しかし、この急進化に対しては、冷静に事態を分析し、駕籠訴の結果が放置されるのではないかと懸念する勢力も存在しました。
このように、郡上一揆は農民たちの生活を守るための必死の闘いであり、その過程で駕籠訴という大胆な手段を取ったことが、彼らの抵抗運動に新たな展開をもたらしました。
一揆は最終的に幕府の介入によって沈静化しましたが、この一揆が地方の農民反抗運動として歴史に刻まれたことは、後の時代にも影響を与え続けたのです。