分断の深まる郡上藩の領民、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
分断の深まる郡上藩の領民
1757年6月、一揆勢と反一揆勢との対立がさらに激化していきました。
前谷村の定次郎と切立村の喜四郎の名で回状が回され、その内容は殿様や農民の敵は「寝者」であり、寝者とその家族、家来に至るまで挨拶すら禁じるというものであったのです。
この回状は、同じ農民同士でありながら一揆勢の立者と寝者の間に深い溝が存在することを明示し、寝者と交際した場合には罰金を徴収する村も現れるなど、両者の対立はますます厳しさを増していきました。
一方、寝者側でも駕籠訴仲間に加わらない連署状を交わし、反一揆の結束を強めようとする動きが見られました。
このように、立者と寝者の対立はエスカレートしていきましたが、一揆勢の中でも活動に積極的な者と消極的な者が存在し、寝者にも強固な反一揆派から一揆そのものに関心の薄い者までさまざまな立場があったのです。
また、立者と寝者の対立に巻き込まれないよう中立の立場を取る「中人」や、双方に通じる「両舌者」と呼ばれる者たちもいました。
このように、立者と寝者の勢力図は一揆勢が有利な状況になると立者が増え、逆に藩の締め付けが強くなると寝者が増えるといった流動的なものであったのです。
一揆勢の要求により、町方の人々は田畑の作物を奪われ、さらには金銭を要求される状況にありました。
そのため、彼らは藩の後押しも受けて江戸で訴えを起こす計画を立てたのです。
しかし寺社奉行の本多忠央に相談した結果、郡上藩が絡む訴訟が頻発しているため、これ以上の訴訟は避けるべきだとの忠告を受け、計画は頓挫しました。
1757年9月には、上之保筋の一揆勢が「定」と呼ばれる規律を制定しました。
この「定」は、駕籠訴吟味の判決が下るまで金銭要求を控えることや、借金取り立ての際に乱暴をしないことを定めたもので、一揆勢の行動を統制し、秩序を保つためのものです。
この「定」の制定は、藩の権力が上之保筋にはほとんど及んでいないことを示しており、一揆勢が自治的な行動を取るようになった証でもあります。
こうして、1757年後半から1758年にかけて、上之保筋では藩の統制が弱まり、年貢の納付すらままならない状態に陥っていきました。