藩は巻き返し工作を図った、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
郡上藩の巻き返し工作
宝暦4年(1754年)、郡上藩で農民たちの強訴により、年貢の徴収方法である「有毛検見法」が一旦頓挫しました。
しかし、藩内の年貢増徴派はこの改正を目指し巻き返しを図り始めたのです。
彼らは美濃郡代の代官、青木次郎九郎を利用し、幕命という形で農民たちに検見法を受け入れさせる計画を練りました。
この巻き返しは、藩主金森頼錦の縁戚関係を利用した巧妙な政治工作によって進められたのです。
1754年12月、幕府寺社奉行の本多忠央が金森頼錦を見舞いに訪れた際、代官青木を通じて検見法採用を進める計画が提案されました。
本多はこの依頼を受け入れ、幕府勘定奉行の大橋親義に仲介を依頼します。
結果、郡上藩の江戸家老や藩士たちが大橋親義や青木次郎九郎と連携し、検見法の強行採用に向けた工作が進められたのです。
しかし、青木次郎九郎は当初、郡上藩領の年貢徴収法に幕府が関与することに抵抗感を示しました。
そこで藩側はさらに老中本多忠珍や大目付曲淵英元にも協力を求め、最終的に青木は検見法を実行に移すこととなったのです。
この過程で、藩主金森頼錦は自らの幕府内の地位を利用し、青木に圧力をかけたといいます。
1755年7月、郡上郡内の庄屋や組頭たちは笠松陣屋に召集され、青木次郎九郎から検見法採用が正式に言い渡されました。
青木は、検見法は土地や収穫に応じて年貢が変動するため農民に不都合はないと説明し、農民の強訴に対する十六か条の願書も考慮する旨を伝えたのです。
しかし、庄屋たちは圧力に屈し、検見法を受け入れる形で印形をすることとなりました。
その後、農民たちは抵抗を続け、幕府に対して免許状の返還を要求するものの、藩側はこれを認めず、強硬な姿勢を崩しませんでした。
最終的に、郡上郡内の代表たちが再度集まり、検見法の受け入れに反対する姿勢を示すも、幕府側の強い圧力に屈することとなったのです。
こうして郡上藩内では一旦、検見法が正式に導入されることとなったものの、農民たちの抵抗はその後も続き、さらなる騒動を引き起こすこととなったのです。