高官たちへの厳しい処分、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
高官たちへの厳しい処分
郡上一揆の審理において、幕府高官の処分が下される一方で、田沼意次の政治的手腕が注目を集めました。
将軍側近として田沼が正式に吟味に参加したものの、老中本多正珍や若年寄本多忠央への尋問は難航し、特に忠央は責任追及に対して否認を続けたのです。
しかし1758年10月には忠央も罷免され、幕府役人への吟味が終了した。
その後、判決が下され、忠央を含む幕府高官たちに厳しい処分が科されました。
本多正珍は事件への適切な対処を怠ったとして逼塞処分、大目付曲淵英元や勘定奉行大橋親義もそれぞれ罷免・永預けなどの処分を受けたのです。
この結果、幕府高官が多数処分される異例の事態となったものの、その背後には、個々の権力濫用が問題視されていました。
さらに、この裁判を通じて、年貢増徴による財政再建を目指していた本多正珍の勢力は衰退し、田沼意次を中心とする商業資本への間接税を推進する派閥が力を持つようになったのです。
田沼は1万石の加増を受け、大名に列するまでに出世し、今後の権勢拡大が期待されるようになりました。
特に本多忠央の失脚により、田沼の立場は一層強固なものとなり、幕府内での影響力をさらに高めることとなったのです。