混沌とする情勢、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
混沌とする情勢
宝暦年間に起きた郡上一揆は、農民たちの生活を脅かす年貢増徴に対する反発から始まりました。
初めは藩側の圧力により、一揆勢から脱落する者もいましたが、後に再加入する者も現れ、寝者と呼ばれた藩に従う側の人々に対して攻勢を強めていったのです。
これを「寝者起し」と呼び、一揆勢はさらに団結を深め、藩の弾圧に対抗する形で次第に勢力を拡大していきます。
一揆が長期化すると、訴訟を続けるための資金調達が不可欠となり、郡内で費用を分担する「郡中割」という仕組みが導入されました。
一揆勢は江戸での訴訟を積極的に展開し、藩外に拠点を設けるなどして活動を広げます。
駕籠訴(籠訴)と呼ばれる幕府に対する訴状が提出されると、幕府も吟味を開始し、村方三役の30名が事情聴取のために江戸へ送られました。
この過程で、幕府内の財政再建を巡る対立が影響し、訴訟は一揆勢に有利な形で進められていったのです。
一方で、江戸での吟味が進行する中、郡上では藩主の金森頼錦が病気から回復し帰国します。
藩主の帰国時には一部の村方三役が出迎えを拒否するなどの抗議行動も見られました。
また、一揆勢の要求により、江戸で拘束されていた農民たちの赦免も行われ、多くの者が解放されたのです。
しかし、年貢増徴策を支持した郡上藩の家老たちは失脚し、一揆の原因となった検見法が強行される中、藩と農民の対立は続いていきました。
最終的に一揆は、幕府の内部抗争が影響して一時的には農民側に有利な形で進行しましたが、年貢増徴に反発する農民たちと藩との緊張は依然として解消されることはなく、その後も厳しい状況が続きました。
この一揆は、地方での農民反抗運動の象徴的な出来事となり、幕府の統治と財政政策に対する強い影響を与えたと言えるでしょう。