歴史上の大きな転換点となった、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
郡上一揆の歴史的評価
郡上一揆は、18世紀中期に岐阜県郡上藩で起こった農民による大規模な一揆で、現状維持を求める保守的な側面を持ちながらも、複雑な社会的・経済的背景を抱えていました。
きっかけは年貢徴収法の改正で、農民たちは従来の定免法による年貢徴収を守ることを訴えたのです。
この要求は藩や幕府を倒す革命的な意図ではなく、素朴な宗教心に基づいた現状維持への願いに端を発していました。
一揆勢は「仏神三宝のお恵み」を信じ、「先規の通り」を望む形で、為政者に対して仁政を求めたのです。
一方で、郡上一揆には保守的な動機だけではなく、硬直した社会体制に対する異議申し立ても見られました。
当時、商品経済が発展し、年貢増徴が強化されたことで農民間の経済格差が拡大していたのです。
裕福な農民である庄屋層は新しい検見法を受け入れる一方、貧しい農民たちは従来の定免法を守ることを主張し、一揆は次第に貧困層の声を代弁する形へと発展していきました。
一部の参加者は幕府への恐れを捨て、高札を引き抜き、評定所で反抗的な発言をするなど、既存の秩序への反抗を明確に表現したのです。
郡上一揆は長期間にわたって続いた点でも特筆されます。
一揆は当初、庄屋層も参加していたものの、やがて彼らの離脱や藩の弾圧が進む中で、農民たちは一揆を継続するために強固な組織を築き、郡上郡内の各地域から献金を集めて資金を調達するなど、現代的ともいえる戦術を用いて闘争を続けていきました。
郡上一揆の最も重要な影響の一つは、藩主金森頼錦の改易と、幕府の中枢を担う老中や若年寄、大目付などの罷免を引き起こした点です。
百姓一揆が原因で大名が改易された例は他にもありますが、幕府の高官が罷免されたのは郡上一揆が唯一の例であるのです。
この一揆は、幕府内部の財政政策に対する路線対立を加速させ、年貢増徴を進める勢力の衰退と、商業資本への課税を模索する勢力の台頭を促す結果となりました。
この変革の中心には、後に田沼意次が登場し、彼の台頭は郡上一揆によって幕を開けたと評価されます。