舞台は江戸へ、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
舞台は江戸へ
1755年8月12日、郡上八幡の白鳥那留ヶ野に70名ほどの農民が集まり、「那留ヶ野の盟約」を結びました。
この地は山に囲まれ、藩の目が届きにくいため、彼らはそこで訴訟の計画を立てたのです。
目的は、藩主に直訴して不当な年貢徴収法の改正を阻止することでした。
この盟約を皮切りに、郡上郡内の農民たちも次々と盟約を結び、団結して年貢徴収に対抗したのです。
翌日、70名余りの農民代表が江戸の金森藩邸に向けて出発しました。
彼らの姿は乞食同然であったため、関所でも通行手形なしで通過できましたが、江戸に到着した時点で代表の人数は40名に減少していたのです。
彼らはまず藩邸に願書を提出し、年貢制度の不当性を訴えました。
農民代表は、江戸金森藩邸に願書を提出する際、16か条と17か条の願書を準備しました。
これらの願書には、農民の生活改善を求める具体的な訴えが含まれ、中でも賃金の支払い要求や村有林の伐採停止など、彼らの生活に直結する内容が強調されています。
この運動は、次第に中・貧農層が主導するようになったと考えられます。
しかし、江戸での訴えは厳しい対応に遭い、農民代表は最終的に藩邸の別邸に監禁されてしまいました。