一揆勢は仕切り直し、郡上一揆
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。
仕切り直しの一揆勢
宝暦8年(1758年)の郡上一揆では、駕籠訴人であった切立村の喜四郎と前谷村の定次郎が重要な役割を果たしていました。
彼らは藩の管理下で監禁されていたものの、歩岐島騒動の混乱の中で脱走し、密かに江戸へ向かったのです。
彼らの駕籠訴は幕府に未決のままであり、その行動は藩にとって重大な問題となったのです。
郡上藩は喜四郎と定次郎を探すために捜索を行ったものの、彼らはすでに江戸に向かっており、発見することはできませんでした。
最終的に、藩は彼らの逃亡を幕府に報告し、彼らの早期自首を促すことを試みたものの、彼らはすぐには応じず、代わりに訴訟の再開と目安箱への訴えを準備していたのです。
そして、彼らはその後、幕府に自首し、再度の訴訟に向けて動き出します。
一方で、一揆勢は藩の締め付けに対抗するため、関寄合所を中心に再編成を進め、江戸との連携や資金調達を強化しました。
特に歩岐島村の四郎左衛門がこの体制再構築の中心人物となり、藩に対抗する闘争が続けられたのです。
しかし、再度の駕籠訴を試みたものの、訴状は幕府に受理されず、一揆勢は更なる行動を余儀なくされました。
これにより、一揆勢は目安箱への箱訴を決断し、幕府に対して直接的な抗議を行おうとしたのです。
この一連の出来事は、郡上一揆における藩と農民の激しい対立を象徴し、農民たちは何度も命がけで藩の圧力に立ち向かいました。
この駕籠訴人の脱走と訴訟再開の動きは、一揆勢の組織再編とその後の展開に大きな影響を与え、彼らの抵抗の象徴的な瞬間となったのです。