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遂に発生した強訴、郡上一揆

華盛頓Webライター
credit:unsplash

江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。

しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく、中には幕政を揺るがす騒動にまで発展した事件もあります。

この記事ではそんな江戸時代の大騒動、郡上一揆について紹介していきます。

遂に発生した強訴

1754年、郡上藩では年貢徴収法を従来の定免法から検見法へと改正する申し渡しが行われました。

この改正は、農民にとって収穫量に応じた年貢の負担が増減する検見法が有利だと説明されたのです。

しかし、庄屋たちはその内容を農民と協議したいと回答し、藩庁を後にしました。

この時点で、人々は河原にやってきており、強い不満を抱いていたのです。庄屋たちが各村で会議を開くと、人々は激しく反発し、村々は代表者を選びました。

約120名の庄屋や代表者たちは、南宮神社に集まり、一致団結して反対の意思を示す「一味同心の誓い」を立て、年貢徴収法改正反対の嘆願書を提出しました。しかし藩側からの明確な返答はなく、最終的には農民たち自身が直接藩に嘆願する決断を下したのです。

その後、1754年8月10日、郡上郡や越前領内からも多くの農民が集まり、検見法への改正反対を訴える強訴に至りました。

これには百姓だけではなく、郡上藩が課していた絹や茶、紙といった商品作物への税負担に苦しむ豪農や商人も協力しており、長良川沿いの下川筋が中心となって進められたのです。

強訴に直面した藩側は、代官や家老たちが農民たちの要求を受け入れ、年貢徴収法改正の断念を認める免許状を手渡しました。

この一件を通じて、農民たちは自らの団結力を強め、郡上藩内でも年貢増徴に反対する勢力が浮上したのです。

金森左近がそのうちの一人であり、藩内の意見対立はその後も続くこととなりました

強訴後、農民たちは藩との交渉の成功を象徴する免許状を重要文書として管理し、毎年巡回で各村の庄屋が保管することを決定しました

一方で藩側は、事態を江戸の藩主に報告し、年貢増徴を推進する役人を登用して対応に乗り出しましたが、農民たちの訴えを完全には無視できず、その声を聞き入れる姿勢を見せたのです。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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