1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。
記事一覧
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- 方広寺鐘銘事件で、なぜ「国家安康」の文言が問題となったのか? その深い意味を探る
- 徳川家康が諸大名を臣従させ、豊臣秀頼を孤立させた巧妙な作戦
- 方広寺鐘銘事件が勃発。徳川家康が不快に感じたのは「国家安康」の文言だけではなかった
- 徳川家康は全国の主要鉱山を支配し、江戸幕府の財政基盤を強化した
- 関ヶ原合戦後、徳川家康は「豊臣包囲網」を形成し、豊臣秀頼を封じ込めようとした
- 徳川家康は畿内や京都市中を掌中に収め、豊臣政権の権限を奪取した
- 関ヶ原合戦後、牢人となった仙石秀範は、なぜ京都で寺子屋を開き、仕官活動をしていたのか
- 豊臣秀頼が往時の勢いを取り戻すことが不可能になった、深刻な理由
- 宇喜多氏の改易後、明石掃部ら大量に発生したキリシタン牢人の厳しい事情
- 関ヶ原合戦後、なぜ大量の牢人が発生し、大問題となったのか。その事情を探る
- 徳川家康は二条城で豊臣秀頼と引見し、自発的に臣従させることに成功した
- 関ヶ原合戦後、なぜ徳川家康は豊臣家をすぐに滅ぼさなかったのか。その真相を探る
- 関ヶ原から土佐に逃げ帰った長宗我部盛親は、余計なことをしたので改易された
- 関ヶ原から逃亡した宇喜多秀家は、八丈島に流されて無念の死を遂げていた
- 黒田如水は「九州の関ヶ原」で活躍したが、天下を取れなかった当たり前の理由
- 関ヶ原合戦後、豊臣秀頼の威勢は急速に下降したのか。その誤解を解く
- 関ヶ原合戦で東軍の勝利に貢献! 徳川家康から隠居を慰留された本多忠勝の晩年
- 関ヶ原合戦で大活躍! あまりに無念だった井伊直政の最期
- 伊達政宗は「北の関ヶ原」で大活躍したが、「百万石のお墨付き」を反故にされた理由
- 関ヶ原合戦後、徳川家康が東軍諸将を大幅に加増し、厚遇した当たり前の理由
- 九度山に逼塞していた真田信繁は、「打倒家康」の執念を燃やし続けていたのか
- 徳川家康に叱責された子の秀忠。秀忠は関ヶ原合戦でそんなに酷い大失態を演じていたのか
- 関ヶ原合戦後、上杉景勝は大幅に減封され、その責任はすべて直江兼続に負わせた
- 関ヶ原合戦後、徳川家康が豊臣秀頼に代わり、恩賞配分を行った当然の理由
- 豊臣秀頼と千姫の結婚には、徳川家康の特別な思いと意味があった