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伊達政宗は「北の関ヶ原」で大活躍したが、「百万石のお墨付き」を反故にされた理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伊達政宗騎馬像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原合戦が描かれたが、伊達政宗の「北の関ヶ原」における活躍は割愛されていた。政宗は家康から「百万石のお墨付き」を与えられたというが、なぜ反故にされたのか理由を考えてみよう。

 天正19年(1591)、豊臣秀吉は奥州再仕置軍を編成し、一揆勢力の討伐を行った。総大将の豊臣秀次が約3万の兵を率い、徳川家康以下、東北の諸大名がこれに従ったのである。

 奥州再仕置軍に対して、一揆の首謀者である和賀義忠らも必死の抵抗を試みたものの、ついに再仕置軍によって制圧された。こうして秀吉の奥州仕置は、多くの困難があったものの、無事に完了したのである。

 逃走した義忠は、途中で土民に殺害され、和賀、稗貫の両郡は南部信直に与えられた。結局、和賀氏・稗貫氏らの一揆は失敗に終わり、彼らの没収された領地は南部氏のものになった。その後、没落した義忠の子の忠親は、伊達政宗の庇護下に収まったのである。

 慶長5年(1600)に関ヶ原合戦がはじまろうとすると、政宗は家康から「百万石のお墨付き」を与えられ、戦後の大幅な加増が約束された。

 一方で、政宗は忠親をそそのかして挙兵を促し、水沢城主・白石宗直に支援させることを約束した。こうして忠親は、和賀氏の旧臣や稗貫氏の残党を集めて蜂起し、南部氏の諸城を攻撃し所領奪還を目論んだのである。

 むろん政宗の意図は、ほかにあった。会津征伐が本格化すると、東北の諸大名は東西両軍のいずれに与するか苦悩した。政宗は親家康の立場にあったが、これを機会にして、領土拡張を目論んだのは疑いない。ある意味で忠親は復帰をにおわされ、単に政宗に踊らされただけかもしれない。

 同年9月20日、忠親は南部氏の主力が出羽合戦に出兵中の間隙を突き、花巻城(岩手県花巻市)や周辺諸城を急襲したが(花巻城の夜討ち)、北信愛、柏山明助、北信景らの反撃により退けられた。旧稗貫家臣らは、伊達氏の支援を受けて大迫城を攻撃し、一時は城を制圧したが、やがて城を放棄して逃亡したのである。

 以後、南部氏は反撃に転じると、一揆軍は敗北を重ね、ついに二子城も奪還された。一揆軍が岩崎城(岩手県北上市)に籠城すると、積雪の厳しい時期になり、戦いはいったん中断したのである。

 翌年3月、南部軍は再び岩崎城の攻撃を開始した。南部軍は苦戦を強いられたが、4月26日に岩崎城を落した。逃亡した忠親は、政宗に暗殺されたとも、自害して陸奥国分寺に葬られたともいわれている。

 結果、忠親をそそのかした政宗は、あいまいな態度を家康から問題視され、「百万石のお墨付き」を反故にされたという。つまりは政宗の自業自得といえるのかもしれないが、実はそうではないかもしれない。

 ほかにも約束を守ってもらっていない大名がいたのだから、最初から家康は反故にする気だったのかもしれない。

主要参考文献

渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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