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関ヶ原合戦後、なぜ徳川家康は豊臣家をすぐに滅ぼさなかったのか。その真相を探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が征夷大将軍に就任し、豊臣家を凌駕する存在になっていた。関ヶ原合戦後、徳川家康は豊臣家をすぐに滅ぼさなかった。その真相を探ることにしよう。

 慶長5年(1600)9月15日、家康が率いる東軍は、石田三成らが率いる西軍を打ち破った。その後、三成ら首謀者は処刑、もしくは改易、減封などの厳罰をもって処された。

 ところが、家康は余勢をかって、そのまま豊臣家を滅亡に追い込まなかった。家康が本気を出せば、できたのかもしれない。むろん、実行しなかったのには、大きな理由があった。

 そもそも関ヶ原合戦は、家康が率いる東軍と三成らが率いる西軍との戦いであって、その目的はどちらが豊臣政権下で主導権を握るかにあった。あくまで両者の権力闘争である。

 豊臣政権の主宰者である豊臣秀頼は、東西両軍のいずれに与したわけでもない。たまたま西軍の面々が大坂城を占拠したので、西軍の手の内にあるかのように見えただけである。

 そのような意味でいえば、秀頼は西軍に与したわけではないので、別に家康に負けたわけではない。ましてや、家康から処罰される謂れがなかった。

 家康は三成ら西軍に属した諸将を処罰したが、それは家康に逆らったというよりも、豊臣政権を混乱に陥れたからということであろう。家康が秀頼の代わりに行ったのである。

 家康にしても秀頼に落ち度があったわけではないかったので、罰する理由がなかったのである。家康が秀頼を討とうとするならば、もちろん理由が必要である。なければ、諸将は従わないだろう。

 家康は関ヶ原合戦の結果、大老の筆頭として、秀頼を支えることになった。手始めに家康が着手したのは、東軍諸将への領知配分である。

 このとき家康は、秀頼の存在を憚って領知宛行状を発給することなく、あえて口頭で行ったといわれている。しかも、宛がう領知は自分で適当に選んだのではなく、諸将への配慮を示していたという。

 慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍となり、武家の棟梁としての地位を確固たるものにした。この年が江戸幕府の誕生でもある。同年、家康は孫娘の千姫と秀頼を結婚させた。

 2人の結婚は政略結婚だったのだから、家康が豊臣家と良好な関係を継続したいと思ったのは疑いない。2年後、家康は将軍職を子の秀忠に譲り、以後も世襲することを天下に知らしめたといえよう。

 一連の政治過程の中で、もはや豊臣政権は事実上消滅し、わずかに往時の威光が残るだけだった。かつて二重公儀という、東国は徳川家、西国は豊臣家がそれぞれ統治するという考え方があったが、もはや成立する説とはいえないだろう。

 ただし、家康からすれば、やがて秀頼にはほかの大名と同じような扱いをし、できれば経済の中心地である大坂を譲ってほしかったと思ったかもしれない。そのスイッチが入ったのが大坂の陣ではなかろうか。そこに至るまでは、かなりの時間を要したのである。

主要参考文献

渡邊大門『大坂落城 戦国終焉の舞台』(角川学芸出版、2012年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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