方広寺鐘銘事件で、なぜ「国家安康」の文言が問題となったのか? その深い意味を探る
大河ドラマ「どうする家康」では、ついに方広寺鐘銘事件が勃発し「国家安康」の文言が問題視された。なぜ「国家安康」の文言が問題になったのか、詳しく検討することにしよう。
「国家安康」の文言が問題になると、徳川家康は五山僧に調査を命じた。そもそも鐘銘は非常に長文だったので、五山は「鐘銘でこれだけ長い文は見たことがない」、「縁起あるいは勧進帳の類だ」と嘲笑した。
実は、「国家安康」の四文字には、家康にとって看過しがたい重要な問題があった。それは五山僧の意見である「家康の諱の二字を「国家安康」の四字に書き分けることは、前代未聞のこと」に集約されよう(『東福寺誌』)。
清韓の撰した「国家安康」の文言は、家康の諱を書き分けたので、批判的な見解が示されたのだ。慶長19年(1614)8月17日、清韓は片桐且元に伴われ、幕府の取調べに応じた。
清韓は事前に弁明書を作成し、家康に陳謝したうえで「国家安康」「君臣豊楽」の2つの言葉について、「国家安康というのは、御名乗の字(家康)を隠し題として入れ、縁語としたものなのです。申し上げておきたいのは、昔も今も縁語にすることは多いことなのです。(中略)この意が届かなかったようでしたら、私の不才であるがゆえです。万事放免くだされば、生前死後の大幸になることでしょう」と釈明した(『摂戦実録』)。
隠し題とは、題とされた事物の名を直接表わさず詠み込むことで、和歌、連歌、俳諧などの技法である。この場合は、「家康」の諱をそのまま表示することなく、「国家安康」の4文字の中に織り込んだ(「家」「康」に分けた)。
縁語とは、主想となる語と意味上密接に関連する言葉を他の箇所で使用し、表現のおもしろみなどをつけることだ。清韓は「家康」の諱を用いて、「国家安康」という縁起のいい言葉をひねり出したのだが、誤解を招いてしまったのである。
清韓は徳川家・豊臣家の繁栄と四海の平和を願い、「国家安康」、「君臣豊楽」という文言を用いた。隠し題、縁語という詩文作成上の修辞を駆使し、華やかさを増すよう努力したが、かえって仇となった。
いずれにしても、鐘銘に本来入れるべきでない家康の諱を組み込んだのは、明らかに失敗だった。清韓は懸命に弁解したが、家康は許さなかったのである。
その後、家康は清韓の経歴に疑念を持ち、清韓が南禅寺で紫衣を得たのか調査を命じた(『本光国師日記』)。紫衣は勅許により、高僧にのみ着用が許された袈裟・法衣のことである。
家康は清韓の経歴に詐称があれば失脚させ、豊臣方を追い込む材料にしようとしたのだろうか。しかし、板倉重昌が調査した結果、清韓が紫衣の位階を得ていたことが判明し、疑惑は晴れたのである。
東福寺住持の集雲守藤は、窮地に陥った清韓を救うため、崇伝に家康への執り成しを依頼した。しかし、崇伝は多忙を理由として要請を断り、集雲守藤からの進物も返却した。
崇伝は家康のもとで、清韓を追い詰めようとしていたのだから、救いの手を差し伸べようとする集雲守藤の要請を受け入れるはずがなかった。
こうして家康は清韓の手落ちを徹底して追及し、間接的に豊臣家を追い込んだ。清韓の銘文を採用した豊臣家にこそ、責任があるということになろう。こうして清韓だけでなく、徐々に豊臣家も窮地に陥ったのである。
主要参考文献
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)