九度山に逼塞していた真田信繁は、「打倒家康」の執念を燃やし続けていたのか
大河ドラマ「どうする家康」は、九度山に逼塞していた真田信繁が登場し、激しい武芸の鍛錬を行っていた。一説によると、信繁は父の昌幸とともに九度山へ逼塞させられたが、「打倒家康」の執念を燃やし続けたという。この話は事実なのか、考えてみよう。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、信繁は父の昌幸とともに九度山(和歌山県九度山町)に流されると、「打倒家康」の執念を燃やし、連日のように作戦を練っていたといわれている。
しかし、その話は後世に創作された逸話に過ぎず、史実ではないと指摘されている。真田十勇士が信繁の命に従い、各地で諜報活動を行っていたという話も創作であり、そもそも真田十勇士の存在自体が史実ではない。
昌幸も「打倒家康」に燃えていたというが、実際はすっかり気力と体力が衰え、逆に家康に赦免を乞うて、一刻も早く帰郷したいと考えていたほどだ。昌幸も信繁も経済的に苦しく、国許などからの金銭的な援助がなければ、とても生活が成り立たなかった。
結局、昌幸の願いは叶わず、無念の思いを抱きながら病死した。昌幸が死ぬまで家康を討つという執念を抱いていたのは、まったくの創作であり、史実とは考えられないのである。
実際の信繁は、ドラマのように覇気のある人物ではなかったようだ。
信繁の書状(姉婿・小山田茂誠宛)によると、信繁自身が年をとったことが悔しくてならないこと、昨年から突然老け込んで思いがけず病人になってしまったこと、すっかり歯が抜けてしまったこと、髭なども黒いところが少なくなり白髪が増えたこと、などが書かれている(「岡本文書」)。
それだけではない。父の昌幸と同じく、幽閉生活を送っていた信繁の生活も荒んでいた。日々の楽しみといえば、学びはじめた連歌くらいで、あとは酒を飲むことだけだった。生活は厳しかったので、ドラマのように大勢の配下の者に武芸を教えるような余裕はなかったのである。
昌幸がまさしく息を引き取ろうとしたとき、信繁に家康との戦いの必勝法を授けたという。その必勝法は、二次史料に書かれたもので、信を置くことができない。「家康を討つ」という悲願を果たせなかった昌幸の思いを投影させた、単なる作り話に過ぎないのである。
そもそも、紀伊浅野氏の監視下にあった昌幸・信繁父子が家康に弓を引くなど、とうてい考えられないことである。同時に、家康が昌幸・信繁父子を恐れていたという話も成り立たない。家康は天下人であり、昌幸・信繁父子は牢人だったので、まったく格が違うのである。
主要参考文献
渡邊大門『大坂落城 戦国終焉の舞台』(角川学芸出版、2012年)