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豊臣秀頼が往時の勢いを取り戻すことが不可能になった、深刻な理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀頼の居城だった大阪(坂)城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康と成長した豊臣秀頼の姿が描かれていた。家康が征夷大将軍に就任したので、豊臣秀頼が往時の勢いを取り戻すことは不可能になった。その理由について、詳しく考えてみよう。

 慶長8年(1603)2月12日、家康は征夷大将軍に任じられると、従一位・右大臣に叙位任官され、さらに源氏長者、淳和・奨学両別当にも任じられ、牛車の礼遇、兵仗の礼遇を認められた。

 一方、秀頼も家康が征夷大将軍になった10日後、正二位・内大臣に叙位任官されたが、この時点で2人の立場は大きく変わり、家康が上位になったのは否定できないだろう。

 当時、秀頼が関白になるという噂が流れていた。関ヶ原合戦後、九条兼孝が関白だったが、世の人々は近々に秀頼が関白に就任すると思っており、この事実は当時の記録にも見える。

 ところが、秀頼が関白に就任することなく、それは単なる噂に過ぎなかった。秀頼が関白に就任することで、家康に対抗しうる立場になる可能性を重視する指摘もあるが、過大評価だろう。

 同年7月、秀頼は秀忠の娘・千姫を妻に迎え、徳川家との関係を深めたが、見方によってはその配下に甘んじたともいえる。とはいえ、徳川家が豊臣家と良好な関係を築こうとしたのは事実である。

 慶長9年(1604)8月、家康は伏見城で、慶長10年(1605)9月までの約1年を期限とし、諸大名に御前帳・国絵図を提出するよう要請した。

 かつて豊臣政権下においても諸大名に御前帳・国絵図の提出が求められ、大坂城に保管されていたという。御前帳は国家的な土地の帳簿のことで、軍役を賦課する基準になった。いかに重要な文書だったか理解できるだろう。

 御前帳・国絵図の提出の対象となる地域は、越中・飛騨から伊勢・紀伊の間を境として、それより以西だった点は注目される。家康は将来の天下普請における負担の基準とすべく、西国諸大名の石高を把握することを目的として提出を求めた。

 戦争があった場合、御前帳・国絵図が軍役基準となるので、この頃から豊臣政権の打倒を念頭に置いていた可能性もある。御前帳・国絵図の提出を要請したことは、家康による豊臣政権の権限の吸収と考えてよい。

 慶長10年(1605)4月、家康の子・秀忠が征夷大将軍を引き継ぎ、天下に征夷大将軍職が徳川家に世襲されることが知らしめられた。秀頼は一大名としての地位に止まることになり、徳川家の武家の棟梁としての地位、江戸幕府の確固たる権力が確立したのである。

 この時点で、秀頼が政権を担う可能性は、ほぼゼロに等しくなったといえよう。ただし、家康はまだこの段階で、まだ豊臣家を滅ぼそうとは考えていなかった点には注意すべきだろう。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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