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関ヶ原合戦後、徳川家康が豊臣秀頼に代わり、恩賞配分を行った当然の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
清涼寺。豊臣秀頼公首塚と釈迦堂。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原合戦後の模様が描かれていた。戦後、諸大名の恩賞を配分したのは、徳川家康だった。本来は、豊臣政権の主宰者である豊臣秀頼が行うべきであるが、なぜ家康が行ったのか考えることにしよう。

 関ヶ原合戦後、家康は西軍諸将の改易、減転封、および東軍諸将への領知宛行を行った。重要なことは、いまだ豊臣政権、秀頼が健在だったことである。

 結論を先に言うと、秀頼はまだ幼かったので、家康が恩賞の配分を代わりにやらざるを得なかったということになろう。また、それができるのは、家康しかいなかった。

 諸大名の領知の配分を担当したのは、井伊直政、本多忠勝ら家康配下の家臣だったといわれている(『慶長年中卜斎記』)。領知配分の原則は軍功第一主義で、大きな軍功を挙げた大名は大幅に加増されたが、叛旗を翻した西軍諸将には、改易、減封という厳しい態度で臨んだ。

 家康は秀頼の存在を憚って、領知宛行状を諸大名に発給せず、口頭で諸大名に伝えたという(『細川家史料』など)。領地宛行は証拠としての判物が重要だったので、極めて異例のことだった。家康は豊臣政権(秀頼)を無視しえず、自身の領知宛行状を発給できなかったのである。

 新たに所領を与えられた諸大名は、円滑に新天地に入封を果たせなかった者もいた。山内一豊が土佐にする際は、事前に徳川家が下準備をしていた。井伊直政は家康の命を受け、家臣に長宗我部氏の居城の浦戸城(高知市)を接収するよう命じていた。

 ところが、長宗我部氏の家臣は浦戸城に籠城し、井伊氏に頑強なまでに抵抗した(浦戸一揆)。山内氏は長宗我部旧臣の抵抗という混乱を乗り越え、土佐に入封を果たしたのである。

 慶長6年(1601)4月16日、中川秀成は片桐且元ら4名が連署した知行目録を与えられた(「中川家文書」)。加えて同年9月6日、岡江雪と山岡景友は連署で、秀成に書状を送った(「中川家文書」)。

 書状には、家康が秀成の忠節を認めて所領を安堵すること、西軍に属した太田一吉を改易し、その与党を遠国に追いやったと記している。秀頼が健在とはいえ、家康の主体性が所領安堵や改易などに見られるのは重要だろう。

 西軍に与した長宗我部元親や立花宗茂は改易処分を受けたものの、再び大名として復権すべく、伏見城に滞在中の家康に交渉しようと考えた。交渉相手は、豊臣政権の主宰者である秀頼ではなかった。結果的に2人の願いは聞き入れなかったのである(宗茂はのちに復活した)。

 彼らを大名としての復帰させるか否かは、家康の判断に委ねられていた。秀頼はまだ幼かったので、領知給与や大名への復帰の承認は、家康が掌握していた。こうして家康は、徐々に権力基盤を築いたのである。

主要参考文献

渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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